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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.10.17] ■■■
[附 39] サロンの終焉
792〜833年を対象とした"詔勅の国史"「日本後紀」840年は、21年もの時間を費やした40巻モノだが、わずか10巻しか現存しておらず、逸文ありの佚書と言ってよいだろう。応仁の乱が酷かったと解説されているが、他の国史は同様な憂き目に合ってはいない。
一方、「宇治大納言物語」は全くの"私的"な作品だが、完璧な佚書。該当する逸文は皆無。
ところが、書名だけはバラバラと登場する。
  大江親通[n.a.-1151年]:「七大寺巡礼私記」
  藤原忠実[1137〜1154年の談] 中原師元[筆録]:「中外抄」
  「異本紫明抄/光源氏物語抄」…1260年前後 「源氏物語」注釈書

従って、宇治大納言源隆国[1004-1077年]が編纂した書が存在していたのは間違いなさそう。📖説話ジャンルとは

そんなこともあって、17世紀時点では、残存「今昔物語集」=佚書「宇治大納言物語」との説が有力だったようだ。
  [朱子学者林羅山四男]林読耕斎/読耕子林靖[撰]:「本朝遯史」1664年…一覧に書名
  (林羅山/道春&)林春斎/鵞峰[撰]:「続本朝通艦」1670年
    …1077年の話として、
      74才の源隆国が草子に仕上げたものが30巻今昔物語/宇治亜相物語と。


この推定には一理ある。
源隆国は三条天皇→後一条天皇→後朱雀天皇→後冷泉天皇→後三条天皇→白河天皇と長期に渡っており、礼を失した振る舞いをしていたにもかかわらず、後三条天皇が重用しており、希な有能な人材であり、作者としての要件を満たしていると考えられるからだ。

それはともかく、ずっと何の音沙汰もない時代が続いていて、突然、儒学者が「今昔物語集」に大いに関心を示したことになる。
世の中的には、その時点まで忘れ去られていたように見える「今昔物語集」だが、一部の知識階層には読み継がれて来たことがわかる。実際、現存写本はかなりの数にのぼっているようだし。
「酉陽雑俎」と同じようなもの。

そこでふと気付いたことがある。

現存最古の写本は、<国宝>鈴鹿家所蔵書:「今昔物語集」@京都大学付属図書館。C14測定で1000〜1200年の材料なので、1120年頃成立との推定が大きく外れていないことを示すことになった貴重書だ。
さらに、1833年奈良、1844年に鈴鹿家で、当該本を閲覧した記録がある。つまり、江戸天保期迄、奈良で保管されていたことになる。しかも、この本の書き入れから、東大寺での書写本と見なされている。
南都の学僧の関心が高い時代があったことを示すと見てよさそうである。

ところが、この写本に大いなる関心を示し、収集に努めたのは好事家ではなく、列記とした神官家の方。
唱導の意図は無いとはいえ、仏教の話だらけで、儒者や神官に関しては、極く僅かしか記載していない書であるにもかかわらず、重要な書とみなしたことになる。
おそらく、本朝の信仰風土を俯瞰的に眺め、その本質を理解する上では画期的な書と考えたのではなかろうか。
一流の知識人であれば、信仰にかかわらず、ピンとくるものがあったということだろう。

つまり、ある時期から、自由闊達だった筈の仏教系サロンは形骸化してしまい、「今昔物語集」を取り上げる閑談的雰囲気は消滅したのだろう。
これは社会の精神的腐敗の深刻化を意味するが、人々はそれこそが精神的腐敗を正す流れと考えていた可能性が高い。

以上、勝手な言説ではあるが、物理的条件からいえば、サロン活動ができるようになったのは院政が実現したからであるのは間違いない。
天皇ではないから、その行動に慣習的な歯止めが無い点が重要といえよう。宮廷から外へ出る行幸は簡単に行えるものではなかったが、天皇位を外れれば、その気になれば命令ひとつでどうにでもなる。しかも、名目的には御殿ではないから、官位を無視した取り巻き編成も可能。
しかし、流石に、朝廷の慣習を壊している顰蹙行為と見なされては拙いだろうから、バッファーが入っている筈。その役割を担ったのが特定の僧である。院の取り巻きが集まって馬鹿話をする場は、僧房しかあり得ないからだ。
例えば、鳥羽僧正で言えば、広大な法勝寺にある自分の僧房を提供していた可能性が高い。たむろしている場にやってきて一発おとぼけをかますことで大人気だったりして。その一方で、院の法事の影のプロデューサーも兼ねた筈である。例えば講師を東大寺から呼んだりして。さらに、大勢の僧を一堂に集める必要があり、比叡の山と園城寺に加えて興福寺僧を集めたと思われる。四天王寺の別当が長かったから、南都の僧とのネットワークを持っており、上手に対処したのでは。

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