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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.6.10] ■■■
[附 18] 現代的階級観
「今昔物語集」と「酉陽雑俎」を同類と感じる人は極く希だろうが、ひょっとすると、そんな感覚を理解できる人は潜在的には結構大勢いるかも。
もっとも、グローバルで見てということで、漢文や日本語古文の本を読む人を母集団にすれば成り立つとは思えないが。

思想とか信仰の問題を扱う仏教説話集ではなく、社会をどう見るかを取り上げた書として読めば、ということで。

この本を読んで、誰でもが凄いと思うのは、"貴賤男女"の様々な職業の人物が登場してくる点。しかも、対象がインターナショナルとくる。視野が極めて広いのである。

インターネットの時代になり、そんなことは当たり前になったと考えると大間違いである。情報は極めて偏っており、社会の全体像はかえって見えなくなって来たと言うべきでは。
何故かと言えば、知っているのは、覚えさせられた自分のクラス観で眺めた風景のみだからだ。かけている眼鏡で見える所だけを注視し、分かった気分になっているだけ。
しかし、なかには、そのことに気付く人もあり、そういう人達は、今、世界が大きく変わりつつあるのに驚愕しているに違いない。
階級観が大きく変わりつつあるからだ。

と言っても、実際、そのような議論があるのか調べた訳ではない。
階級という用語を使うと、定義さえまともにできない"資本家 v.s. 労働者"構造の社会観に拘る人がいたりする世界に係わることになりかねず、調べる気がしないからである。

そんな感覚からすると、「今昔物語集」が感じさせるクラス感は斬新そのもの。
貴種に於ける公然たる生業盗賊の存在を示唆したり、餌取法師(おそらく後世の被差別対象者。)が比叡山高僧と交流しているという、現実社会の姿を示してくれるからだ。
つまり、「今昔物語集」を、社会論を提起している書と考えれば、極めて魅力的なのである。
上記の例で言えば、社会通念上の階層とは別途に、異なる階層が生まれていることを示唆していると見ることもできるからだ。その後の本朝仏教界の大転回の素地がここにあるとも言える。そう考えると、社会の大変動を予想していたと言うこともできそう。

実は、小生は、そのアナロジーで、今の社会も大変動前夜と見ている。

先進国で、階級の大変動が生まれているからだ。

ただ、一般に言われている富の集中化に着目している訳ではない。

この見方が間違っている訳ではないが、収入でクラス感が生まれ、上位、中間階層、下層、激貧に分けられる、という過去からの流れを引きずる発想であり、大きな流れを見逃しかねないと思う。
富の偏りから見てしまうと、どうしても、中間階層が厚くなる大衆社会化への逆流発生と見がち。

現実をもう少し、じっくり見るべきだと思う。
家計収入統計で議論しても、なにもわからない時代に到達しているのを知りながら、他のコンセプトも思いつかないし、情報を得る手段がないから、昔の発想をそのまま続けているのが実情とは言えまいか。

遠の昔に、素人には百も承知の変化が進んでいるのに、無視され続けているからである。

簡単に言えば、中間階層が瓦解し始めたということ。下層への落ちこぼれが続き薄くなるという意味ではない。収入階層で定義される中間階層という概念が通用しなくなったのである。

かつてのアッパーミドルは大衆文化を享受する嬉しさに浸る事が一代特徴。それこそ、ナンタケットで、花火を飾ったケーキで家族で喜びあうことが可能な収入レベルの層を意味する。
  →日本の「階級」考 [2012.6.24]
ところが、今のアッパーミドルは全く違う。
理屈にうるさく、様々なケーキの知識があり、個人的な好みのケーキがいくつかあるのが特徴。

その収入レベルは、かつての上流の大富豪ランクまで含まれる。豪勢な生活を目指している訳ではないから、本人的には、ミドルクラスなのだ。一方、無収入に近いが生活に困っている訳でもなく、簡素な生活を送る人もここに入る。しかも、両者に接点が生まれていたりする。
古典的な階級観からすれば、矢鱈に幅広くとらえどころがない。どうしてそうなるかといえば、多様な文化を愛することが鍵を握っているからだ。それこそがクラス所属感。

つまり、収入では楽々アッパーミドルの筈なのに、そうは見られなくなりつつある人々も生まれて来たのである。
かつては、大衆消費文化を享受できることでミドルと実感できたが、その感覚が失われつつあるということ。自分達がローワーミドルとされており、下手をすればミドルから脱落しかねないと感じるようになっているのである。

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