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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.5.10] ■■■
[附 15] 芸術志向
芸術とは、表現者の精神性を鑑賞する行為というのが、小生の定義。
高度な営為であるが、あくまでも主体と客体を意識した行為。だからこそ、鑑賞者は、自らの精神的自由を感じ取ることができるのだと思う。

「酉陽雑俎」や「今昔物語集」は勿論、その一角を担っている作品。分類から言えば、文芸のなかの"小説"に当たる。
そこには、メッセージが籠められているが、経典とは違い絶対性を求めている訳ではない。換言すれば、時代性を反映しているからこそ価値がある訳で、宗教・哲学・価値観、政治・経済、社会風俗・風習を文字で表現したものと言えよう。

そんな風に考えていると、この2書は、画期的な著作と思えてくる。

と言うのは、両者ともに、内容から見て、宗教文芸とは言い難い。ところが、その底には、仏教への熱き思いが流れていそう。
(宗教文芸とは、宗教美術や宗教音楽もそうだが、あくまでも経典内容を実感させるための作品。古代の芸術とは、ほとんどがその範疇。)
つまり、この2書は宗教的芸術の範疇に入れることはできるが、宗教芸術そのものではないということ。極めて現代的な作品なのだ。

このことをとらえ返せば、宗教的芸術を生み出したのは、大乗仏教の可能性が高いとも言えよう。

宗教芸術は、経典宗教にとっては重要であるが、その役割はあくまでも補助的。官能に訴え、経典を実感してもらい、信仰を深めようとの考えが根底にあるのは明らか。
ところが、この2書を読んでいると、どうも大乗仏教の流れはそれとは違っていそう。
目立つのは、宗教芸術作品が、経典以上に重視される場合が少なくないこと。しかも、そこには宗教的芸術活動が絡んでくる。
芸術活動は布教の補助的役割というより、宗教的芸術が切り拓いていく地平に経典宗教が乗って行くことで布教が進むというのが、実態ではあるまいか。
「今昔物語集」編纂者はそこらに気付いていたように思える。→五百羅漢[👑五百皇子]
こうした体質は、もしかすると、大乗仏教特有のものかも。

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