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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.4.30] ■■■
[附 14] The Gift of the Magi
🎄"捨髮供養"[→]でオー・ヘンリー:「賢者の贈り物」をとりあげたので、その話を芥川:「侏儒の言葉」的に解釈してみよう。

話は飛ぶが、愛児を虐待し殺してしまう親がいる。その行状は、鬼のように映る。ただ、一般には、原因は心の病とされることが多い。
確かに、常識で考えられぬ行状だから、異常な精神状態にあると思いがちで、それは決して間違いではなかろう。しかし、当人はそうは思っていない筈。

親が考えるルールを、なにがなんでも子供に遵守させようとしているだけと考えている可能性もあろう。それが、守られないから、体罰を加え続け、そのうち麻痺してしまい、歯止めがきかなくなったということ。
体罰を与えることこそが、愛だと考えているかも知れぬ。
こうした問題を見つめる場合に重要なのは、この視点では。

常識外れの行為に及ぶのは歪んだものの見方をしているから、とアプリオリに考えがちだが、そうではないのかも。つまり、当人的には、世の中の標準に倣おうとしているだけ。
ここには、とんでもないパラドックスが存在していることになる。

世間的から見て子を愛している親に見えるようにするためには何をすべきかに関心があるということ。それも、心の底から。本人的には、それが子に対する愛と考えているからだ。
おそらく、本人がそれに気付かなければ、この性情を直すのは無理筋。

「今昔物語集」編纂者はこの問題に早くから気付いていたのではあるまいか。
反骨精神旺盛で奇行が目立ち、弟子に対して怒りっぽい、増賀聖人の心情をよく理解していたようだし。

要するに、仏道に精進していても、それは世間という目から見た専心生活を実現しているに過ぎないのでは、という疑問がフツフツと湧いて来たのでは。
本人は、間違いなく、一心に努力を傾けてはいるものの、そこには自分の眼が無い。そんな生き様のどこが嬉しいのか、と言うことでもあろう。

と言うことで、「今昔物語集」編纂者だったら、オー・ヘンリーが描いた夫婦すれ違いの愛情表現をどう見ただろうか。

"愛している夫婦ならクリスマスにどうすべきか"という社会的ルールができあがっており、それを通してしか愛情表現ができない状況が描かれている、と指摘するかも。
本人達は互いに愛し合っている"つもり"だが、実は、両者ともに社会的に"愛し合っているように見える"生活をしたいだけかも。夫婦揃って、共通な心情なので、楽しく愛し合った生活ができる訳だ、と迄は言わないだろうが。

利他的というのが、愛の基本表現形態と思うが、その根底が社会的ルールで規定されているとしたら、それは果たして愛と見てよいのかということ。

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