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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.4.10] ■■■
[附 12] 北斎流仏教説話
小生がみるに、「今昔物語集」編纂者はかなり元ネタを変えている場合が多いが、その自由度は現代人からすると、たいしたものではない。
と言っても、仏教の教説にはおよそ不向きな話も数多く、その場合は自由自在の筈。そうなれば、"生々しい"表現との評価が生まれても当然だ。ところが、こと仏教経典に係わる部分については慎重姿勢が見え隠れする。

ただ、それは震旦と本朝の文化の違いを感じ取っていたせいでもあろう。

震旦の民は、トンデモ話は大好きだし、妖怪でも登場すれば即叩き潰すような性情の人だらけ。従って、その手の創作話は五万とある。にもかかわらず、仏典を改変したり大幅潤色して説話に仕上げることは滅多にしない。そんなことを行う人は特殊な階層に属していると見てよさそう。
つまり、「今昔物語集」震旦部での仏典に係わる話の場合、この姿勢を踏襲せざるを得まい。
一方、本朝の風土は全く異なるので、本朝部では異なる姿勢で、とあからさまにするのは流石にとりにくかろう。
マ、その辺りが本朝部付仏法とわざわざことわる由縁でもあろう。

そんな風土の違いに気付いたのは、実は、「今昔物語集」に取り組む前のこと。葛飾北斎の作品をネットで眺めていた、2013年頃。
  [→北斎と広重からの学び−マインドセット解放のための鑑賞−]

マ、文章で書くより、"一見"で。・・・
  好花堂野亭[考選] 葛飾北斎[画]:「釈迦御一代記図絵」全6巻55話
  [→釈迦御一代記図絵挿図一覧1@織田文庫所蔵の絵入読本(C)東京文化財研究所]

このうち、第二巻29pp提婆太子大象を撃図の挿絵にはビックリ。ここまで自由奔放な描き方がなされているのである。
言うまでもないが、北斎は北辰信仰の"熱き"仏教徒である。

だいぶ後世のこととはいえ、おそらく、こんなことは、震旦ではありえまい。

このことは、本朝と震旦では、仏教説話という概念が異なることを示唆している。
震旦の説教者は専門家であり、聴聞者は素人で、両者の間には線が引かれていることになろう。だからこそ両者共に嬉しいのだろう。
一方、本朝の場合は、両者は混淆状態。熊さんや、ご隠居が説教者であっても何ら違和感はないどころか、その方が有難かったり楽しいと評価される場合も少なくない。つまり、仏典記載への忠実性感覚ゼロということ。臨機応変に話が膨らむことこそが、醍醐味だし、意味があると見ていることになろう。
忠実たるべきは、あくまでも特定の経文や称名、真言の類。
本朝に於ける仏教説話は本質的に改変は自由自在なのだ。

従って、妖怪満載書として紹介されがちな「酉陽雑俎」と同類の書であるにもかかわらず、「今昔物語集」を仏教説話集のカテゴリーに入れたくなるのだと思う。

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