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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.7.31] ■■■
[31] 藤原氏列伝
平安朝を支えることになった藤原氏の系譜が淡々と記載されている。事績はほとんどないので退屈な感じがするが、継承にあたっての、藤原家内の角逐をそれとなく記載した点に意味があるのかも。
と言っても、例外があり、若き《高藤》の恋だけは力が入っている。
尚、藤原氏大繁栄と言えば道長だが、系譜はそのずっと前で終わっている。好色な時平大臣が、伯父の妻を公然と寝取る仕掛けが奏功するという話を〆にしているのだ。この話で盛り上げるための系譜話のように映る仕掛け。

【本朝世俗部】巻二十二本朝(藤原氏列伝)
[巻二十ニ#1]大織冠始賜藤原姓語
皇極天皇代、春宮は後の天智天皇。
 大臣は蘇我馬子の子 蝦夷。
【蹴鞠譚】…蝦夷無礼。
大極殿での節会で、蝦夷斬殺され、
 それを聞いた馬子は自ら家に火をつけ自殺。公財消失。
天智天皇即位後、大織冠=中臣《鎌足》 藤原姓を賜る。
 御子は淡海公=《不比等》。
[巻二十ニ#2]淡海公継四家語
藤原《不比等》は4子をもうける。
 太郎 武智麿は大臣まで成上り、南側の家に住む。
 二郎 房前の大臣、北側の家に住む。
 三郎 は式部卿、そこで家は式家と呼ばれた。
 四郎 麿は左京の大夫、そこで家は京家と呼ばれた。
四家流々。
 なかでも北家は摂政関白を出して栄えた。
  世を恣にして、天皇の御後見役となったのである。
 南家は人は多けれど、末には、大臣・公卿等に成る人難し。
 式家も、人は有ど、公卿等に至る人無し。
 京家は、然るべき人は絶にけり。
北家の拠点は山階寺の西の佐保殿。
[巻二十ニ#3]房前大臣始北家語
《房前》大臣が北家祖。
河内の国渋河郡に山居造営。そこで可咲門と呼ばれる。
御子は大納言 真楯。年若く大臣になったが逝去。
 その御子 内麿は大臣となり家を継ぐ。
[巻二十ニ#4]内麿大臣乗悪馬語
世の人、皆、内麿を重く敬て、随ぬ者無かりけり。
【悪馬譚】
 白壁の天皇(光仁)の他戸太子は心猛く恐られていた。
 必ず踏咋う悪馬がいて、誰も乗らず。
 そこで、《内麿》大臣に騎乗を命じた。
 見事に、暴れ馬を乗りこなした。

[巻二十ニ#5]閑院冬嗣右大臣子息語
閑院の右大臣《冬嗣》には子供が多かった。
 太郎は、長良の中納言。弟二人の下臈。
  然れども、此の中納言の御子孫は、于今繁昌。
 二郎は、良房の大臣。太政大臣まで成上る。
  心の俸て広く、身の才賢く、和歌を微妙く読給ける。
  娘は文徳天皇の染殿の后で、男子なく、
  天皇の后の生けた桜の詠み歌あり。[古今巻1春歌上#52]
   年ふれば よはひは老いぬ しかはあれど 花をしみれば 物思ひ無し
 三郎は、良相。西三条の右大臣。
  浄蔵大徳行者により千手陀羅尼の霊験。
  御子 常行は、大納言の右大将。
   常行の子 六位典薬助の名継と五位主殿頭の棟国は糸賤き。
弟二人は長男を凌駕したが、子孫は続かなかった。
…染殿の后はすでに取り上げた。[巻二十#7][→天狗]
[巻二十ニ#6]堀河太政大臣基経語
長良の中納言の御子は関白 堀川太政大臣《基経》。
御娘(穏子)は醍醐の天皇の御后。
 朱雀院・村上 二代の天皇の御母。
男子一人は、本院の、左大臣時平。
もう一人は、枇杷の、左大臣仲平。
其の他、数多し。
深草山に葬られ、勝延僧都と上野の峰雄の歌あり。[古今#831,832]
  空蝉は からを見つつも なぐさめつ 深草の山 けぶりだに立て
  深草の 野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは 墨染に咲け
御兄は国経の大納言。兄弟数多し。
[巻二十ニ#7]高藤内大臣語
(系譜確認)
 閑院 右 大臣冬嗣は世の思え糸止事無かったものの若くして逝去。
 男子多く、長良中納言、良房太政大臣、良相左大臣、内舎人(初官)良門。
冬嗣の孫、良門の御子、内舎人《高藤》の話。
父同様鷹愛好。15〜16才の時、九月に南山階(科)で鷹狩。
大風雷電霹靂に遭遇。西の山辺の檜垣唐門の家へと雨宿り。
主はもてなす。高藤は極めて美麗で気高き娘に惚れてしまう。
その娘(列子)と一晩過ごし、契を。
父より禁鷹狩とされ、六年も恋しさはつのばかり。
 その時の馬飼いと探索。置太刀に母娘(胤子)を見つける。
 そして、都に迎えたのである。
高藤はその後大納言に。姫君は宇多院の女御に。
 醍醐天皇の母である。
長男は泉の大将定国。次男は三条の右大臣定方
娘の父 大領 宮道の弥益は、四位修理大夫に任官。
高藤も内大臣にまで成上がる。
弥益の家は勧修寺に、その向かいにも大宅寺造営。
それもあってか、醍醐天皇陵はその近くにある。
[巻二十ニ#8]時平大臣取国経大納言妻語
照宣公 関白基経の御子 本院の左大臣時平は美麗。
ある日、派手な装束で参内し、天皇に退出させられる。
即時従い、一月ばかり閉門謹慎していた。
奢侈諫めのための計画に沿った行動だったらしい。
ともあれ、時平大臣は異常と言えるほど好色。
 80才になる伯父の国経大納言に20才の妻あり。
 美しいと聞いて、機会を窺がっていた。
その頃、好色で有名だったのは、兵衞佐平定文。
 あらゆる女性を我物にという人物。
 大臣の家にも顔を出していた。
二人は品定め。
 平文は藤大納言の妻が最上等と。
 しかし、会っても打ち解けずとも。
 大臣、狙いを定める。
時平、大納言を訪ねおだてること、しばしば。
そして、正月の大宴会開催。
 痛く酔って、最上の曳出物をということで、
 大納言は美貌の妻を。
時平公然と簾の内へという次第。
大納言、暁方に酔醒めて、夢の樣と想えども現実。
《時平》大臣伯父《国経》の妻を盗むの図。
…谷崎純一郎が翻案し「少将滋幹の母」となったらしい。

系図で描くと、以下のようになる。
(中臣)御食子[n.a.@推古→舒明

鎌足[614-669年@孝徳→斉明→天智
├┐
真人[643-666/712年]=入唐僧 定恵
不比等[659-720年@天武→持統→文武→元明→元正
┌┘
├┬┬┐
武智麻呂(南)[680-737年@
房前(北)[681-737年@文武→元明→元正→聖武
│○宇合(式)[694-737年@
麻呂(京)[695-737年]@
┌┘
真楯[715-766年@聖武→孝謙→淳仁→称徳→光仁

内麻呂[756-812年@光仁→桓武→平城→嵯峨

冬嗣[775年-826年@桓武→平城→嵯峨→淳和
├┬┬┬┬┐
長良[802-856年@嵯峨→淳和→仁明→文徳
│○良房[804-872年@嵯峨→淳和→仁明→文徳→清和
良方[n.a.@仁明→文徳
┼┼良門[n.a.
┼┼│○良相[813-867年@仁明→文徳→清和
┼┼良世[823-900年@仁明→文徳→清和→陽成→光孝→宇多→醍醐
┼┼
┼┼高藤[838-900年@清和→陽成→光孝→宇多→醍醐
┼┼├┬┐
┼┼定国[866-906年@光孝→宇多→醍醐
┼┼┼定方[873-932年@宇多→醍醐→朱雀
├┬┬┬┐
国経[828-908年@清和→陽成→光孝→宇多
┼┼遠経[835-888年@仁明→文徳→清和→陽成→光孝
┼┼┼基経[836-891年@文徳→清和→陽成→光孝→宇多
┼┼┼│○高経[n.a.-893年]弘経[838-883年]清経[846-915年]
┌──┘
├┬┬┐
時平[871-909年@光孝→宇多→醍醐
仲平[875-945年@光孝→宇多→醍醐→朱雀→村上
┼┼┼○忠平[880-949年@宇多→醍醐→朱雀→村上
┌──┘
├┐
実頼[900-970年@醍醐→朱雀→村上→冷泉→円融
師輔[909-960年@醍醐→朱雀→村上
┌┘
兼家[929-990年@村上→冷泉→円融→花山→一条

道長[966-1028年@円融→花山→一条皇→三条→後一条

頼通[992-1074年@一条→三条→後一条→後朱雀→後冷泉

他の巻には時平の次世代の話もあるし、道長時代の話もあるのだから、そこらまで系譜に入れてもよさそうに思うが避けたのである。・・・
[巻二十四#3]小野宮大饗九条大臣得打衣語
小野宮の大臣(藤原実頼)の大饗で、主賓の九條の大臣(藤原師輔)は贈り物と女の衣装(紅の打衣)を頂戴する。

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