→INDEX

■■■ 今昔物語集の由来 [2019.8.10] ■■■
[41] 達磨
天竺部全5巻は「仏伝」として編纂されたと考えることもできる。
そのうち、41譚からなる巻四は、釈尊入滅後の話。

その構成は時代的に2つに別れており、前半は内容で以下に2分されている。
  《#_1-15 弟子》
  《#16-22 仏像経典霊験》

弟子の話であれば、それこそ列伝的な「仏伝」が記載されていると思いがちだし、冒頭譚には"結集時の阿難"が登場するので[→INDEX]、かいつまんで法灯を記載していると誤解しがち。
実際は、ポイントを絞って話を並べているのである。

それがわかるのが、#9の達磨登場譚である。
言うまでもないが、達磨は法灯では28祖とされ、それなりに有名な話があるのだが、その手の話を引用している訳ではない。
  《釈尊伝灯》
__六[_0]釈尊
__七[_1]大迦葉/摩訶迦葉
__八[_2]阿難/阿難陀
___
三十四[28]南天竹國王子 第三子 菩提達摩
[「南宗頓教最上大乘摩訶般若波羅蜜經六祖惠能大師於韶州大梵寺施法壇經
 瑩山紹瑾:「伝光録」1300年…インド28祖+中国23祖 一般には道元:「正法眼蔵」仏祖]


達磨の名前はあるものの、その事績とは、他の僧の行を紹介しただけにすぎない。
  【天竺部】巻四天竺 付仏後(釈迦入滅後の仏弟子活動)
  [巻四#_9]天竺陀楼摩和尚行所々見僧行語
陀楼摩/達磨和尚が訪れた寺での僧の行状談。
達磨窺うに、住まう僧多し。
 念仏坊、経典読誦坊、等々、色々。
80〜90才の僧二人だけで、ただただ一日囲碁勝負という坊も。
 そこには仏像は無いし、経典も見当たらない。
 しかも、それが若い僧時分からずっと続いているのだ。
 供養を受けているので、他の僧は"まるで外道"と。
そこで達磨はじっくり観察することに。
 一人は立ち `もう一人は座り、忽然と消えていく。
 そして、また出て来る、といった繰り返し。
達磨合点。
 老僧から事情を伺うことに。
言うことには、
 長年、囲碁以外はしておりませぬ。
  黒勝利の時は、我が煩悩勝てりと悲しみ、
  白勝利の時は、菩提が勝てりと喜ぶのみ。
  打つ度に、白が勝つことを願っております。
  こうして、我が無常を観じており、
   この功徳で証果の身に、と。
達磨は他の僧にこれを語ったので、それから貴ばれるようになった。


そして続く譚も、よく似た内容なのである。
  [巻四#10]天竺比丘僧沢観法性生浄土語
比丘 僧沢は慨怠そのもの。
愚かで、修行を実践するでもない。
同じ寺の比丘たちは馬鹿にしていた。
年老いて病で臥せてしまったのでなおさら。
しかし、昼夜を通じ、
 仏の三身功徳を観想していたのである。
そして、居を正し、仏を念じ、光を放ちながら逝去。
 その時、寺内には香ばしい香りが満ちた。
 皆驚き、単純に侮蔑してはならないことを知った。


出典は両者ともに禅籍の、(伝)宋智覚禅師/永明延寿[904--907]:「心性罪福因縁集」。
禅僧だが、夜は離れて念仏三昧だったと言われている。
(参照) 大谷旭雄:「心性罪福因縁集とその影響−とくに『往生十因』と『今昔物語』−」印度学仏教学研究36, 1970年

「今昔物語集」の編纂者は、28祖師の名前と事績を丸暗記するような姿勢を嫌っていたのだと思う。

 (C) 2019 RandDManagement.com    →HOME