→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2019.9.5] ■■■ [67] 南都の寺 何回も語っているが、「今昔物語集」と唐代の「酉陽雑俎」はウリ、というのが小生の感覚。 対象としている分野の広さではとても比較にはならぬとはいえ、両者ともに1000譚を越え、しかもすべてが"ノンフィクション"である点で思想はほぼ同じ。(書籍や伝聞から収録したもの。それに関する、意見や感想の類は、必ずそれとわかるようにしている。) なんだ、ただ情報を集めただけと言うなかれ。そこには透徹した眼があり、鋭いモノの見方が提起されているのである。かなり危険なこと、つまり命を失いかねない話まで書こうとすれば、この手しかなかろう。 どうしてそこまでして書くかと言えば、後世に残したいから。だが、残る書とは為政者が認めた"歴史"書と小説(「今昔物語集」も「酉陽雑俎」もこのジャンルに属すが、焚書の憂き目にあいかねない類である。)しかないと、気付いたのである。 つまり、後世に伝えたいことを、全精力を傾注してつくりあげた書とも言える。そのもととなったのは、当代随一のインテリが集まった、インターナショナルな雰囲気の仏教サロンでの様々な談義。 実は、それが一番分かるのが、南都の寺の由緒譚。注意して読めば、通常とは一味違うことに気付く筈。 ただ、すぐに、そこに入る前に説明しておかなければならないことがある。 仏教サロンの一番のお嫌いな"宗教"は儒教。個人の精神領域まで支配しようとするからである。・・・おそらくわかる人はわかるし、わからない人は永久にわからない、という馬鹿げた説明しかできないが。 インテリのサロンで自由な会話が成り立つのは、信仰と風習・社会道徳を峻別することができるから。後者は、好き嫌いにかかわらず、社会で生きていく以上ある程度従う必要があるが、前者は個人の自由。と言うか、サロンのメンバーは全員違うからである。 仏教にせよ、道教にせよ、皆、それぞれの信仰心を持っており、同一というものではない。しかし、根底さえ揃っていれば同一宗教に帰依していると言える。だからこそ、仏教の場合、師が誰かという点が重視されるとも言えよう。 儒教は全く異なる。宗教なのに習俗的な風合いを醸し出しているから、ズカズカと信仰の領域入り込んで、個人の信仰自由度を奪うことになる。帝国の官僚制を機能させるためには、その習俗・道徳性は非常に役に立つが、信仰領域に入ってこられたのではたまったものではないのだ。 そんなこともあって、「酉陽雑俎」では、貝(仏教)と壺(道教)について、「今昔物語集」のような様々な話が収録されているが儒教は入ってこない。 と言う事は、「今昔物語集」なら、仏教と神道の話があってもよさそうに思うが、目次から見る限り、そのような様相の欠片も感じさせない構成になっている。 もちろん、寺を護持する神社は東大寺開基の時からあると聞かされてきたし、神仏混淆が早くから進んだということで、必要ないと考えることもできるが、「今昔物語集」を読むと、ムム〜、とうならされるのである。 マ、読む方の感性の問題で感じない方もおられるかも知れぬが。 対象譚は以下の寺の縁起である。(#13東大寺〜#24久米寺:12ケ寺) 【本朝仏法部】巻十一本朝 付仏法(仏教渡来〜流布史) 創建縁起譚 [13]…東大寺 (聖武天皇)❼ [14]…山階寺 (淡海公) =興福寺❼ [15]…元興寺 (聖武天皇)❼ [16]…大安寺 (代々天皇)❼ [17]…薬師寺 (天智天皇)❼ [18]…西大寺 (高野姫天皇)❼ [19]…法華寺・尼寺 (欠文) (光明皇后) [20]…法隆寺 (欠文) (聖徳太子)❼ [21]…(四)天王寺 (聖徳太子) [22]…元(本)元興寺 (推古天皇) =飛鳥寺 [23]…現光寺 (−[屋栖野による仏像護持]) =比蘇寺 [24]…久米寺 (久米仙人) [KEY] ❼:南都7大寺 このうち、"神"が登場する譚を眺めてみよう。 尚、"神"とは無縁な譚は、#15元興寺 (聖武天皇)のように、細かく記載されているものを除けば、とりあえず並べている印象をあたえかねないような扱いである。 最初の譚が印象的。 南都寺伝として東大寺を描くなら、どのようなものか想像してから読まないと、気付かないかも知れぬが。 《東大寺》聖武天皇始造東大寺語 この譚には"神"という言葉が、土着の神霊を示すために使われているが、直接登場してきた訳ではない。ここらをじっくり読んで欲しいというのが、「今昔物語集」編纂者のお願いであろう。 この譚の東大寺のエピソードとはひとえに金の入手。 堂塔、皆出来。大仏、既に鋳居へ済み。 此の国に本より金無ければ、震旦に買に遣す。 ところが、遣唐使は様々の財に多くを遣してしまう。 金が決定的に不足。 さあ、どうする。 "止事無き僧"が申す。・・・ 「大和国吉野の郡に大なる山有り。 名をば金峰と云ふ。 山の名を以て思ふに、定て其の山には金有らむ。 亦、其の山に護る神霊在ますらむ。 其れに申さしめ給ふべき也」 天皇、尤も然るべかりけり」 この結果どうなったかと言えば、神は登場せず、僧が夢にでてくるだけ。当然ながら、金峰から金は出てこない。つまり、金峰の神は朝廷の動きに全く関心を持っていないことが、わざわざ記載されているようなもの。 ご存知のように、結局のところ金が出てくるのは、陸奥の国と下野の国であり、それがどう描かれようが、金峰に存在する神が、北の神に働きかけてどうにかなったと感じる人はいまい。金峰の神は大仏造営に冷淡なのである。 従って、註記としては、この神は"後世の"蔵王権現と書くべきであろう。ここらの「今昔物語集」の文章は、神経を使って書いた箇所だろうから、味わって読む価値があるかも。 《大安寺》代々天皇造大安寺所々語 この譚には神の話が"しっかりと"記載されている。 冒頭では、唐突に、こんなことが。 百済河の辺に百済大寺を造営。 そのため、傍なる神の社の木を沢山伐採。 伐採問題を取り上げたいと言わんばかりだが、その後は関係ない話である。 そして、"大官大寺を改めて、大安寺と云ふ也。"となるので、ここで了かと思いきや、その後に、神の話。伏字がありわかりにくい部分だが□□寺が消失したらしいのだ。多分、こんなところだろう。 高市の郡の子部の□□用にご神木を用いた。 神は雷神となり、嗔の心火を出した。 そのため、 その後、9代に渡って、 天皇が神の心を喜ばしめる必要が生じた。 樹木に覆われたこんもりとした山をご神体として、禁足地にしていた場所で、寺の造営のために材木伐採を始めてしまい大事になったということだろうか。 南伝ジャータカ流な感覚だと、釈尊のように樹霊を敬ってしかるべきだが、渡来当初の仏教にはそのような姿勢は欠けていたようである。 この部分、なんの脈絡もなく挿入されており、実に不可思議。 仏教普及には、土着信仰との長い闘いがあったことを示唆していると考えるべきだろう。 仏教史を考えるなら、これは避けて通れないことですゾと、「今昔物語集」編纂者は指摘したかったのだ。 言うまでもなく、神信仰勢力の代表は物部氏。 どう記載されているか見ておこう。 《天王寺》聖徳太子建天王寺語 守屋、大きなる櫟の木に登て、誓て、 物部の氏の大神に祈請して箭を放つ。 其の箭、太子の鐙に当て落ぬ。 岩波新版の註ではこの大神は「聖徳太子伝暦」で"物部府都大明神"となっているとの記載だが、それは神仏混淆後の名称。「今昔物語集」編纂者は、物部の氏神と記載している訳で、石上の布都御魂剣/布都御魂大神を指していよう。 《本元興寺》推古天皇造元元興寺語 ここでも冒頭から、樹木伐採の話。 堂を起つべき所に、 当に生けむ世も知らぬ古き大なる槻有り。 もちろん、宣旨あり。 「疾く切り去けて、堂の壇を築べし」 伏字でよくわからないが、"皆人逃て去ぬ"。 樹神の木だったらしく、或る僧の思はく、 「此の木を伐には人は死る」と。 しかし、注意深く対処して伐採。一人も死ぬる者無し。 どうなったかと言えば、 木、漸く傾く程に、 山鳥の大さの程なる鳥、五六許、 木末より飛立て去ぬ。 其の後に木倒れぬ。 皆伐り揮て、御堂の壇を築く。 其の鳥共は、南なる山辺に居ぬ。 天皇、此の由を聞給て、鳥を哀て、 忽に社を造て其の鳥に給ふ。 于今神の社にて有り。 龍海寺の南なる所也。 ここに初めて"神"がでてくる訳である。 《現光寺》建現光寺安置霊仏語 反仏教の守屋大臣の信念ははっきりしている。 「凡そ仏の像を国の内に置くべからず。 遠く棄て去れ。」 さらに、 火を放て堂を焼き、 仏をば取て、難波の堀江に流す。 しかし、実態はそうではない。后が栖野に対応させ稲の中に隠していたから。 守屋大臣はあくまでも強硬。 「今、国に災の発る事は、 隣国の客神を国の内に置ける故也。 早く客神の像を取出して、豊国に棄流すべき也」 もちろん、その後、謀反の心ありということで、 天神地祇の罸を蒙て、 用明天皇の御代に、 守屋、遂に罸たれぬ。 上記で、南都の寺で"神"の記載がある譚はすべて。 この後は、仏教の教義とどうつながるかわかりにくい、仙人話。「酉陽雑俎」では、仏僧的仙人もいる訳だが、基本は道士。唐では、隠遁術師に人気が集まっていたのは間違いない。 「今昔物語集」では、仙人は吉野龍門寺の僧。これはすでに取り上げた。 《久米寺》久米仙人始造久米寺語[→久米仙人] [ご注意]邦文はパブリック・ドメイン(著作権喪失)の《芳賀矢一[纂訂]:「攷証今昔物語集」冨山房 1913年》から引用するようにしていますが、必ずしもママではなく、勝手に改変している箇所があります。 (C) 2019 RandDManagement.com →HOME |