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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.9.9] ■■■
[71] 巨勢派
「酉陽雑俎」とどうしても比較してしまうので、「今昔物語集」が絵画について冷淡な印象を持ってしまう。
仏教サロンなら、どこどこの六道絵は恐ろしさで身の毛もよだつとか、あの絵の美しいこと限りなしといった雑談は多かった筈なのに。絵画中心文化と彫刻・塑像愛好文化の違いもあるにしても、絵譚は目立たない。
ただ、嗚呼絵に関心を払うという点では独特なものがあるが。[→嗚呼絵師]

どうしてもそう感じてしまうのは、巨勢広高の話があるが、拾遺的な巻にまわされているから。
絵師として取り上げたいのなら、【本朝世俗部】巻二十四本朝 付世俗(芸能譚 術譚)に入れていそうなもの。そこでは、百済川成の話を収載しているだけ。

その巨勢広高だが、大和絵宗家第5代にあたる。
  《巨勢朝臣の系譜》@現在の御所古瀬<

野足…正三位中納言

光舟

有行
[宮廷画家宗家]…大和絵様式確立
[1]金岡…従五位下・采女正

[4]公望 [3]公忠 [2]相覧(養子)

深江

[5]広高/広貴…采女正 絵所長者
(作品は現存しない。)
│  _99x年:楽府屏風@藤原道隆邸
│  _999年:不動像
│  _999年:歌絵冊子(藤原彰子入内調度)
│  1002年:一条天皇衣服向け五霊鳳桐の模様
│  1004年:花山上皇命で性空上人像
│  1010年:屏風(妍子入東宮調度)
[6]是重

[7]信茂


さて、お話の方はこんな筋。
  【本朝世俗部】巻三十一本朝 付雑事(奇異/怪異譚 拾遺)
  [巻三十一#_4]絵師巨勢広高出家還俗語 (後半欠文)
 一条天皇期[986〜1011]の優れて絵師 巨勢広高は、
 古人に恥じず、当代にも肩を並べる者がいないほど。
 もともと信仰心が篤かったが、
 重病で病床にあり、
 世の無常感を深く感じ出家。
 その後、治癒し元通りに。
 それを聞いた朝廷は、
 内裏の絵所に召したいと。
 ついては、仏絵師では具合が悪いので、
 すぐに還俗すべし、と。
 本意ではないので、広高嘆き悲しんだものの、
 宣旨であり、従うことに。
 そこで、
 髪を伸ばすため身柄は近江守にお預け。
 守は、東山の方に押し籠め、監視人を付けた。
 広高はそこの新堂内で 誰にも会わずにいたが
 つれづれに、
 堂の背後の壁板に、地獄の絵
[地獄変相図]をかいた。
 その絵は今も残っているおり、
 多くの人々が訪れ、この絵を見るが、皆絶賛。
 長楽寺が、その絵が書かれているところ。
   
…長楽寺[805年創建 伝教大師開基 延暦寺別院 ]@円山公園
 広高はその後俗人として長く朝廷にお仕えしたので、
 襖絵や屏風がしかるべき所に残っている。
 摂関家に代々伝えられる物にも、屏風絵があり、
 家宝として、大饗や客人接待時に取り出される。


この話でわかるように、阿闍梨絵師と世俗絵師は峻別されていた訳だ。

従って、絵師の話はもっぱら後者ということか。

そういう意味では、巻二十四で絵師として百済河成/余あぐり[782-853年]:散位 従五位下の話を入れ込んだのは、極めて自然な選択といえよう。どう見ても、最初の世俗画家なのだから。
その後は、もちろん、巨勢派だけではない。・・・
○飛鳥部常則
  _954年:村上天皇自筆金字法華経の表紙絵
  _964年:白沢王像@清涼殿西廂南壁
  _972年:賀茂祭禊用の牛・馬・犬・鶏の彫物下絵/採色
  xxxx年:神泉苑風景画(冷泉院所蔵)…藤原道長賞賛@1013年
○《宅磨派》
為氏

為成/藤原為成…絵所長者
│  1053年:平等院鳳凰堂扉絵
為遠

為基/勝賀 為辰 為久

名称からみて世俗絵師ではないし絵阿闍梨の君(「大鏡」)とさえ呼ばれていても、同様な仕事をしていたりするので、話半分で受け取った方がよいかも。
○延円[n.a.-1040年 中納言藤原義懐次男]
  1021年:高陽院修造時庭石配置
  1024年:御座絵屏風(後一条天皇高陽院行幸)
  1024年:法成寺薬師堂柱絵

さて、その百済河成の話だが、こんな調子。・・・
  【本朝世俗部】巻二十四本朝 付世俗(芸能譚 術譚)
  [巻二十四#_5]百済川成飛騨工挑語
○百済川成は世に並ぶ者なしと言われた名人絵師。
 滝殿の石の配置や、御堂の壁の絵も川成の作品。
○ある時、
 従者の子供に逃げられ探したが見つからない。
 そこで、
 上流貴族の召使を雇い、探して捕えてもらうことに。
 しかし、
  捕まえるのは容易いですが、顔を知らないので無理
 と言われてしまい、
 道理なので、子供の似顔絵を描いて渡した。
 そして、人が集まる東西の市で探すとよかろう、と。
 すぐには、出会えなかったが、
 絵とそっくりな子供を捕らえることができ、
 連れて帰ると図星。
 この話を聞いた人々は大いに感心したという。
○お仲間に、平安遷都で腕を振るった飛騨の工がいた。
 並ぶ者なしという名人。
 あの素晴らしい豊楽院もこの職人の作。
 川成はこの職人と技を競っていた。
  競っても、冗談を交わすような関係でのこと。
 飛騨の工、川成を呼び、
  建造した四面一間堂をみせたのである。
  趣のある小さなお堂で四面の戸全開。
 中を御覧にと勧められ、
  南から入ろうとするその戸が閉まり、
  縁を伝い、西にいくと締り、南が開く。
  すべてがこの造りなので、廻るだけで入れない。
 飛騨の工、大笑い。
 川成は憎らしいと思って帰るしかなかった。
  その数日後、
 飛騨の工は川成からの招待状を受け取る。
 どうせ、騙すのだろうと思って無視していたが
 余りに熱心なので出かけた。
 案内を頼むと、廊下の先の方へ
  戸を開けると
  そこには、大きな人間の死体。
  しかも、ずみ腐敗し膨れ上がっている。
  その臭いが鼻を刺すような気がした。
 悲鳴をあげ庭に飛び出したのである。
 ところが、川成はその中に居た。
 そして、大笑いしている。
 そして、引き戸から顔を出し、お入り下さい、と言う。
 飛騨の工は恐る恐る入ると、
  死体とは衝立の絵だった。
  お堂で騙された仕返しである。

マ、当時は至るところでこんな褒め方がされていたということ。
本当は、もう一つ素晴らしき腕前話があったようだが、都合の悪い点が見つかり削除したのだろう。

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