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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.8.27] ■■■
[58] 嗚呼絵師
「今昔物語集」らしさ紛々の譚をとりあげたい。
登場するのは僧。
《比叡山 無動寺…阿闍梨 義清》
  【本朝世俗部】巻二十八本朝 付世俗(滑稽譚)
  [巻二十八#36]比叡山無動寺義清阿闍梨嗚呼絵語 (後半欠文)
 比叡山無動寺の阿闍梨 義清は、
  若い頃より山に籠もり真言一途。
  京には上らない上、僧房からの外出も少なくなっていた。
  四〜五指に入る聖者なので、
  ご祈祷依頼が絶えなかった。
 この僧、嗚呼絵
[戯画]上手。
 戯画は、面白く見せるため強調した筆さばきになりがちだが、
  義清作品は違った。
  何げなき感じで、一筆でさらりと書く。
 と言っても、滅多なことでは描かなかった。
 でも、依頼があり、
  貴重な紙で大きい画紙を出すと、絵を小さく描く。
  そこでとても長い画紙を出した人がいたが、
   両端に弓を射る人と的を描いて
   真ん中には長い線を引いて完成させた。
   頼んだ人は、紙がもったいないので、ご立腹。
 こんな話ばかりよく知られており、
 肝心な、真言僧としての話は知られていなかった。

そういうオトボケのお方であるが、
話は続く。
 修正会でのこと。
 法会が終了。供物の餅が分配された。
 ところが、座主御寵愛の若くて美形の弟子がご不満。
  分配量が少なかったからである。
  そこで、
  老阿闍梨を懲らしめ
  見せしめにしてくれよう、と、
 えらく怒ったのである。
 それを耳にした人が
  大変なことになったと、阿闍梨に伝えた。
 阿闍梨、それでは、早速詫び状を、と。
  すらすらと書き、届けてもらう。

さて、何と書いたのだろう、と読者は興味津々。
いかなる諧謔、遊びがなされたか期待が膨らむ。
ところが、この譚、これ以降の文章が脱落しているのだ。
コレ、「今昔物語集」編纂者の遊びでは。さあさあ、読者の方々、お考え下さい、という訳である。

この巻の僧侶登場譚をさらに見ていこう。

《禅林寺/永観堂…僧正 尋禅》のちの天台座主
《徳大寺…僧都 賢尋》
《禅林寺…上座 助泥》
  [巻二十八#_9]禅林寺上座助泥欠破子語
 禅林寺/永観堂僧正 尋禅[九条殿(右大臣藤原師輔)の御子]
  弟子である、徳大寺の賢尋僧都の、若い頃の話。
 入寺僧になったので、拝堂式が行われることになる。
  大きな破子[折詰型弁当箱]が沢山必要となった。
 そこで師は
  禅林寺上座の助泥を呼んで、
  破子を30荷準備するようにと仰せになった。
  すると、助泥は、早速、15人の名前を書き、
   これで15荷集まります、と。
  師が、残りは?と尋ねると、
  助泥が自分で用意すると。
   全部用意してもよかったが、
   人々に集めさせるよう、との仰せなので、と。
  それは有り難いと言うと、
   なんのこれしきと言う調子。
 さて当日。
  リストの人々からの15荷の破子が到着。
  待てど、残りがなかなかこない。
  やがて、扇子を使いながら助泥がやって来た。
 師は、
  やっと来たか破子屋。随分得意顔だな、と言う。
  助泥が正面に悠然とした態度で座ったので、
   どうしたのか、と仰せに。
 助泥おもむろに答える。
  実は、5つは借りれなかったのでございます、と。
 残りは、と聞かれ、
  後の5つは入れる物が見つからなかったのでございます、と。
 さらに、その残りは、と聞かれ、
  それは忘れてしまったのでございます、と。
 師は、呆れる。
  人々に集めさせれば、
  40だろうが、50だろうが、揃ったのに、と仰せになり、
  助泥を呼んで参れと
   大声をお出しになったが
 その時はすでに、助泥は逃げ去っていた。

イヤー、実に馬鹿げた話だが、だからこそ面白さがある。
このことを持って「助泥の破子」という言葉ができあがったというのだが、本当かネ〜。
寺にはユニークで、冗談半分で生きているような僧がわんさか、ということか。

インテリ好みなのは、おそらくこのような話ではなく、知的センスが組み込まれているもの。言葉の使い方に関する失敗談の範疇がその典型と言ってよいのではなかろうか。
《桃園[後の世尊寺]…法会に招かれた読経学僧達》
  比叡山・三井寺・奈良の寺…多数の学僧
  山階寺…中算
  木寺…基増(仁和寺の僧)
  [巻二十八#_8]木寺基増依物咎付異名語
 一条摂政藤原伊尹卿の住居"桃薗"では、
  春秋毎に、御読経の法会が行われていた。
  比叡山、三井寺、奈良の諸寺の学僧が招かれた。
 夕座を待っていた時のこと。
   寝殿南側の庭に面する縁が御読経所だったので、
   僧はそこにズラ〜と並んで座っていた。
   趣ある、池や中島の築山を眺めていたのである。
 山階寺
/興福寺の若手俊英で知られる中算が感想を述べた。
  「このお屋敷のキダチは他とは違いますナ。
   なんと素晴らしいことヨ。」
 その側にいたのが、木寺の基増。叡山の僧である。
  「ホホウ、奈良の法師は物を知らん。
   みっともない言葉遣いなことヨ。
   コダチをキダチとは。
   情けない限り。」と。
  嘲る態度で言い放ったのである。
 中算すかさず、
  「言い間違いをしましたナ。
   と言うことは、
   あなた様を呼ぶ時も、
   コデラのコゾウと申さねば。」と
  ニタリとして返したのである。
 満座、爆笑し、この言葉を繰り返す。
 別室の摂政殿は
  この大騒ぎを聞きにやらせた。
  状況そ知り、
  「基増がまんまと中算にひっかけられたのだナ。」と。


知的な言葉のバトルは、日常的な遊戯でもあった。
《殿中…導師 仁浄》
  [巻二十八#14]御導師仁浄云合半物被返語
 導師 仁浄は説教上手であり、口も立った。
  そんなこともあって、殿上人や公達の遊び相手だった。
 仁浄が、御仏名法会のために参内した時のこと。
 藤壺の口に、侍女が立っていた。名前は八重。
  檜扇で顔を隠していた。
 仁浄、早速、からかう。
  「厠に桧垣を廻らしたりして。
   賤しい者が入って来たりする訳もないのに。」と。
 そのまま通りすぎようとすると、八重、すかさず一言。
  「尻尾を剃った犬を入れないためですヨ。」と。
 見事な言い返しで、一本とられてので、
  仁浄、殿上人達に
  「八重に、してやられましたゾ。」と。
 皆感心。


もちろん知的にはほど遠い話もある。
《比叡山 (東塔⇒)西塔…座主 教円》
  [巻二十八#_7]近江国矢馳郡司堂供養田楽語
 教円は比叡山 西塔に住む座主。
 まだ供奉だった頃、近江の矢馳の郡司の支援を受けていた。
 若い頃のエピソードである。
 ある時、仏堂建立に伴う落慶法要を頼まれたので、
  必要な事を伝えた。
   [1] 迎えの船
   [2] 馬2〜3頭
   [3] 法要のため舞楽
  このうち、舞楽は、極楽の天人の情景を表すためなので
  それができる楽人を集めるのは難しいかも知れない、と。
 郡司からは、全く問題なしとの返答。
 当日、
  教円は暗い中、比叡山を下り、
  夜明ける頃、琵琶湖湖畔に。
  用意された船に乗り、矢馳に到着。
 そこで待っている馬の数が矢鱈に多い。
  しかも、白装束の男達が並んでお出迎え。
  教円と伴の2僧が騎乗して出発。
 すると、大きな音で、田楽演奏が始まり、
  次々と演目が続いたのである。
    田楽鼓を腹に結付け
    より肱を取出し
    笛を吹き、高拍子を突き
    を差て
  教円の前後になりながら、行進は続いた。
 教円は、御霊会だろうと思い、
  人目につかぬよう、ずっと顔を隠し続けた。
 郡司の家に入っても演奏は続いたので
  流石に、教円も当惑し、
  どういうことか尋ねた。
 すると、
  「舞楽で法要との仰せなので
   ご用意したのです。」と。
   さらには、
  「講師を迎えるのにも楽が良いそうですし。]とも。
 そこで、
  田楽を舞楽と見なしていることに気付いたのである。
 教円、可笑しくなったが、
  落慶法要を立派に澄ませた。
 比叡山に帰り、田楽のことを皆に話すと、皆大笑い。

笑わずに我慢したのは流石である。葬儀の行列が入ってきた瞬間に、結婚行進曲が流されるようなものだから。馴染みのない文化や風習ならわかるが、仏教のパトロンがそのような御仁だったりする訳だ。
仏教の信徒とはそのレベルであることを思い知らされた訳でもあり、どうしても可笑しさが込み上げてはくるものの、そこにはほろ苦さも含まれていることは承知しておくべきだろう。郡司なら、その位、最低常識としてわきまえておけよ、という話ではないのである。

続くは口達者の面白さ。
と言うか、余りにしたたかな僧なので舌を巻くというところ。海賊相手に堂々と演説するなど、戯曲のワンシーンに最高。
《豊後(多分、国分寺)…講師》
  [巻二十八#15]豊後講師謀従鎮西上語
 豊後で、講師を務める僧が、
  引き続いて任命してもらうため
  船に財を積んで、上京することに。
 交通上京を知る者は
  近頃は、海賊が多いので
  兵士を乗せずに、沢山の物を積むのは
  心配だ、と言う。
 胡
/やなぐい[携行矢入]3腰のみで
  兵士は乗せずに出航。
  いくつか国を経た頃、
  2〜3艘の船に囲まれてしまった。
 船に乘っている人々は、
  海賊が来た、と恐れるだけ。
  講師は動ぜず。
 そうこうするうち、1艘がやって来た。
  すかさず講師舳先いざり出る。
   その姿は武人そのもので、
   青色の織物の直垂を着て、
   柑子色の紬の帽子を被っていた。
  簾を少し巻き上げ、
 海賊に向かって言う。
  「どなたが、寄ってこられるのか?」と。
 海賊応える。
  「侘人が粮を少し頂きたく参上。」と。
 講師言う。
  「此の船には
    粮が少し、
    軽物も
    人が欲しい物も少々ある。
   何なりと、お好きなように。
   侘人と言われたのでは、愛おしく思い、
    少しでも差し上げたいと思う。
   しかし、筑紫の者がそれを聞いたら
    "伊佐の入道が
     どこどこで、海賊に遇い、
     捕縛されて、船の物を皆取られた。"
    と言うだろう。」と。
 さらに続けて、
  「だから、進呈する訳にはいかない。
   この能観は既に年八十。
    思いがけず、ここまで生きてきた。
    東国での度々の合戦でも生き延びたが、
    八十にして、どこごとに殺されるのも
     報いというものだ。
    かねてより覚悟で驚くことなど無い。
   此の船に乗り移り、この老法師の頸を掻き切れ。
   此の船の男どもよ。手向かってはならぬ。
   すでに出家しており、今更、戦でもない。
   此の船を漕ぎ寄せて、彼等を乗せてさしあげよ。」と。
 かの主達を乗せ奉れ。」と。
 海賊はこれを聞きて、
  「伊佐の平新発が御乗りだったか。
   すふに逃げよ、皆の者。」と。
 船は皆逃げていった。
 速い船なので、鳥が飛ぶように去っていったのである。
 講師は従者達に言う。
  「見よ。
   海賊に物を取られたか。」と。
 そんなことで、上京して、講師を続けることに。
 国に下る時は、
  しかるべき人に付いて、筑紫に。
 その経緯を聞かされた人は、
  「やり手の老法師だ。」と褒めた。
  「伊佐の新発意と名乗るという思いつきは
   本物の伊佐の新発意に優る。」と、
  笑いこけたのである。


この"滑稽"巻には44譚が収載されているが、僧が主人公の話は結構多い。機知に富む話がし易いという訳でもなさそうだが、普段から冗談の題材に使われていたことを意味しているのではなかろうか。
すでに取り上げたものは以下。・・・・

《禅林寺/永観堂…僧正》
  [巻二十八#10]近衛舎人秦武員鳴物語[→近衞官舎人]

《祇園…別当 感秀》
  [巻二十八#11]祇園別当感秀被行誦経語[→祇園別当]

《n.a.…名僧》
  [巻二十八#12]或殿上人家忍名僧通語[→祇園別当]

《枇杷殿…読経僧(n.a. & 東大寺)
  [巻二十八#17]左大臣御読経所僧酔茸死語[→毒茸]

《金峰山…別当 & 二掾t
  [巻二十八#18]金峰山別当食毒茸不酔語[→毒茸]

《比叡山 横川…僧》
  [巻二十八#19]比叡山横川僧酔茸誦経語[→毒茸]

《北山山麓の寺…尼》
  [巻二十八#28] 尼共入山食茸舞語[→毒茸]

《宮中内道場…内供 禅珍》
  [巻二十八#20]池尾禅珍内供鼻語[→慶滋保胤]


[ご注意]邦文はパブリック・ドメイン(著作権喪失)の《芳賀矢一[纂訂]:「攷証今昔物語集」冨山房 1913年》から引用するようにしていますが、必ずしもママではなく、勝手に改変している箇所があります。

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