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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.9.11] ■■■
[73] 小野篁
「今昔物語集」には、有名な小野篁の歌が引用されている。[→和歌集]
言うまでもないが隠岐配流の際に詠んだ歌。
  【本朝世俗部】巻二十四本朝 付世俗(芸能譚 術譚)
  [巻二十四#45]小野篁被流隠岐国時読和歌語
言葉遊びも得意で、気骨があり、豪奢な生活を嫌っていたようだ。衆生を救うための宗教活動にに理解を示していたのだろう。

そんなところから生まれたような話が収載されている。
  【本朝仏法部】巻二十本朝 付仏法(天狗・狐・蛇 冥界の往還 因果応報)
  [巻二十#45]小野篁依情助西三条大臣語
 小野篁が学生だった頃のこと。
 とある事件で罪を被りそうに。
 その当時宰相だった西三条の大臣良相が弁護してくれた。
 そのことで、篁は心中感謝していた。
 そのうち、篁は宰相に。
 良相は大臣に。
 ところが、良相大臣は重い病にふせ、
 数日経たぬうちに逝去。
 良相は閻魔大王の使いに縛られ、
  生前の罪を調べられることに。
  閻魔王宮に連行された。
 良相、居並ぶ閻魔大王の家臣を眺めたのである。
 すると、その中に小野篁がいた。
 そして、篁
は笏を取り閻魔大王に上申。
  「この日本の大臣は心が正しく、
   人のために役立つ人。
   今回の罪は、私に免じ、お許しの程。」と。
 閻魔大王は言った。
  「それはなかなか難しい。
   しかし、篁がそこまで言うのなら許そう。」と。
 篁、使いの者に
  「速やかに連れて帰るように。」と指示。
 その結果、
  良相大臣は即生き返ったのである。
 さらに、重い病気からも回復。
 良相大臣、冥途での出来事を不思議に思ったが、
 そのままにしていた。
 ある時、いつものように参内したら、
 たまたま、参議の篁がそばの席に。
 他に人がいないので、よき機会と思い、
 その事を小声で尋ねてみた。
 すると、篁は微笑みながら答えたのである。
  「昔、面倒を見て頂いて嬉しかったので、
   そのお礼です。
   決して、公言なさらなきよう。」と。
 成程、閻魔王の臣下ということか。
 尋常ではない人だな、と気付く。

比較的知られている話だが、フローバルな地獄観を示すための話かも。
「此の"日本の"大臣は、心直くして、人の為に吉き者也。」と言うのだから。
冥界の官吏に惹き立てられ、罪状記録に基づいて、閻魔王が裁くという官僚システムが基本なのですゾと示したかった可能性もある。と言うのは、この手の話が「今昔物語集」には滅多に現れないからだ。白山地獄に至っては、冥府などなっさそうだし。
「酉陽雑俎」など、罪を調べにくる官僚や、冥府へ連行する官僚等々、ちょくちょく登場するし、賄賂が効いたりする現世的な運営がなされていることがよくわかるが、「今昔物語集」ではその辺りはさっぱりわからない。
連行されるのではなく自発的に行くようだし、裁きについても、閻魔王の一存という訳でもなさそうな雰囲気なのである。
しかも、地蔵菩薩が助けてくれることも多い。
その辺りは順次見て行こう。

そんな状況を考えると、この譚については、創られた話であることを知りながらママ収録した可能性もあろう。篁と良相がこのような関係になる筈がないからだ。・・・
    小野篁 & 藤原良相
802年 誕生
813年        誕生
822年 
文章生
832年 大宰少弐
634年        蔵人
838年 隠岐配流
840年 └→復帰
847年 参議
851年        権中納言
852年 逝去
857年        
右大臣
867年        逝去

嵯峨天皇[在位:809-823年]と仏教への信仰が篤い檀林皇后の時代であり、その雰囲気を伝える貴重な話と考えたのでは。
収載されてはいないが、同様な伝説的な話が今日まで伝えられている。

ひとつは、矢田寺/金剛山寺@大和郡山矢田。小野篁はこの寺の満米上人に通じる檀徒だったようで、上人が本尊を観音菩薩から地蔵菩薩に変更したことに伴い、縁起伝説が生まれたようだ。(篁が閻魔大王に満米上人を菩薩戒を授けるお方として紹介)

もう一つは、上記の譚と関係しており、よく知られている話。
野辺送りの法要地に位置する六道珍皇寺@東山鳥辺野入口に現世と冥界の境界があるとの伝説。

小野篁の話は六道珍皇寺ではなく、愛宕寺が題材になっている。現在は嵯峨野に移転し愛宕念仏寺として有名だが、もともとは東山である。鴨川氾濫被災も多そうな場所であり、篁は地蔵堂を創建したのではなかろうか。
  【本朝世俗部】巻三十一本朝 付雑事(奇異/怪異譚 拾遺)
  [巻三十一#19]愛宕寺鋳鐘語
 小野篁は愛宕寺を建立。
 寺で使う為、鐘を鋳させた。
 すると、鋳物師はこう言った。
  「この鐘は、撞く人無しで
   毎日、十二の時毎に鳴るように造った。
   そのため、鋳あげてから土をに埋め
   三年間放置する必要があります。
   今日から数え、
   丁度、丸三年経った日の翌日掘り出すこと。
   もし一日でも日数が足りなかったり、
   遅らせて掘り出すと、
   そうはならないようにしております。」と。
 そして、去って行ってしまった。
 2年が過ぎ、別当は待ち切れなくなり
 その日が来ないのに掘りだしてしまった。
 ただの普通の鐘だった.
 つまらぬことをする別当だとの非難集中。


[ご注意]邦文はパブリック・ドメイン(著作権喪失)の《芳賀矢一[纂訂]:「攷証今昔物語集」冨山房 1913年》から引用するようにしていますが、必ずしもママではなく、勝手に改変している箇所があります。

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