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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.9.25] ■■■
[87] 子攫い鷲
「今昔物語集」を眺め始める時、鷲鷹の話がどうなっているかザッと目を通してみた。
「酉陽雑俎」では、宦官中心に流行っていた鷹狩に合わせ、"生き物"としての鷹の薀蓄が凄いので、猛禽類への関心のほどが気になったから。
  【天竺部】巻五天竺 付仏前(釈迦本生譚)
  [巻五#14]師子哀猿子割肉与
  【震旦部】巻九>震旦 付孝養(孝子譚 冥途譚)
  [巻九#25]>震旦隋代天女姜略好>感現報語
  【本朝仏法部】巻十六本朝 付仏法(観世音菩薩霊験譚)
  [巻十六#_6]陸奥国取男依観音助存命語
  【本朝仏法部】巻十七本朝 付仏法(地蔵菩薩霊験譚+諸菩薩/諸天霊験譚)
  【本朝仏法部】巻巻十九本朝 付仏法(俗人出家談 奇異譚)
  [巻十九#_8]西京仕者見夢出家語
  【本朝世俗部】巻二十六本朝 付宿報
  [巻二十六#_1]於但馬国取若子語
  【本朝世俗部】巻二十九本朝 付悪行(盗賊譚 動物譚)
  [巻二十九#33]肥後国咋殺蛇語
  [巻二十九#34]民部卿忠文知本主語
  [巻二十九#35]鎮西猿打殺為報恩与女語

成程。
「宿報」巻の冒頭に"子攫い鷲"譚を持ってきたか。
と言うことで、そこで感じたことを書いておこうと思う。

先ず、誤解していたことに初めて気付かされた。

"子攫い鷲"のモチーフは、「良弁杉由来」で大衆的に知られておいるが、これは明治期新作浄瑠璃。てっきり、「今昔物語集」観音菩薩霊験譚の翻案とばかり思っていたが、そうではなかった。
(粗筋:東大寺建立[→南都の寺]の功労者 良弁[689-773年]が2才の時鷲に攫われて春日社に運ばれ、義淵僧正に救われ育てられ高僧になり、1寸8分の如意輪観音菩薩像のお蔭で二月堂杉の前で母と再会。尚、文楽とは無関係のようだが、良弁は、近江志賀石山寺を創建し観音菩薩像を安置したとも。)

このモチーフだが、14世紀成立の「神道集」巻六 三島大明神事にも登場するようだ。こちらも、観音霊験譚とも言えそうな話。
(だいたいの中身は、こんなところ。・・・伊予の橘朝臣清政長者は子が欲しかったので大和長谷寺十一面観音に参籠し寄進。どうしてもという祈願ということでついに美しい若君が生まれる。そのかわり倉はなくなり家来も失い、夫婦は食べ物を採りに。すると、鷲が子供を攫っていったのである。その行先は阿波坂西。美しい若君ということで、次々と欲しい人があらわれ帝のもとで内の蔵人に。そして、自らの生い立ちを知ることになり、四国へ赴任させてもらい親探し。そして、ついに発見し、伊予三島の地が所領に。
父母の墓の上に建造した社に祀られ「三島大明神」となる。伊予国一宮である。)


ところが、「今昔物語集」収載のお話は仏教に一切かかわりなし。しかも、鷲にも特段の意味はない。それだけでも奇談である。
このような話は、普通は消されるか、改変されてしまうからだ。

但馬七美郡川山の住人の這い這いしている赤子が鷲にみ取られ、丹後加佐に運ばれて鳩の巣に落とされたのである。赤子の鳴き声に気付いた住民が取り降ろして養なうことに。すべて、無名の一般人。
その事件の10数年後に、父親が用事で丹後加佐を訪れて、たまたま虐められている女の子に出逢い、それが判明。

核となっているのはこれだけ。その子がその後どうなったとか、特別な特徴がある訳ではなく、王者の貫禄がある鷲に大切に運ばれた位だから聖なるお方という訳でもない。
これを"子攫い鷲"のモチーフとして、翻案バージョンと一緒にする訳にはいくまい。

それでは、この話で取り上げたい事は一体なんなのか、となるが、それははっきりと書いてある。血が繋がる親と育ての親の問題である。育ての親は、実の親に廻り遇えたことに、これこそ因縁であると感動し、子供を返したのである。
 家主に、
 此く機縁深くして、行き合へる事を悲むで、
 惜む事無くして許してけり。

そして、実の親はそれに対して、
"あなたこそ親であり、二人で育てましょう。"と。
 「但し、我も亦、年来養ひ立つれば、実の祖に異ならず。
  共に祖として養ふべき也。」
 其の後は、女子但馬にも通ひて、共に祖にてなむ有ける。

両者共に、父子の宿報を感じ、二人で親になったという話。極めて現代的な感覚と言ってよいだろう。

ここに於いては鷲の役割はほとんど無いと言わざるを得まい。
 実に此れ有り難き奇異き事也かし。
 鷲の即ちひ失ふべきに、生乍ら樔に落しけむ、希有の事也。

猛禽だろうが、猛獣だろうが、攫っておいて喰わないのは確かに稀有ではあるが、そんな例が無い訳ではない。「今昔物語集」編纂者は、それも有りえると見ているのではあるまいか。

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