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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.9.26] ■■■
[88] 蕪太郎
"子攫い鷲"譚が「良弁杉由来」とは根本的に異なるモチーフであることを知ると[→]、「今昔物語集」が"仏教説話集"と呼ばれる意味もわかってこよう。
換骨奪胎のための翻案的レッテル貼りということ。それは、大衆的に大成功を収めた訳だ。

「酉陽雑俎」が妖怪博物学の奇書と名付けられているのと同じこと。そう思わなかったのは魯迅位かも。でも、流石なのは、決してそのレッテルを剥がそうとはしなかったこと。インテリ用の書だからだ。

しかし、本の著者/編纂者が、このような書を企画した時点で、その手の動きを予想していない筈はない。従って、それに対処するためのキツイ一撃が組み込まれることになる。

宿報譚集巻はその役割を担っており、まさに圧巻。そのなかでも冗談としか思えないトンデモ話がある。
この手の話の場合、出典先をいくら探したところで文書が見つかるとは思えない。

仏教説話集「今昔物語集」の最高傑作譚としてご紹介いただければ幸いという、編纂者のメッセージと言えなくもない譚だ。まさにエスプリの塊。
題して、蕪から生まれた"蕪太郎"。・・・
  【本朝世俗部】巻二十六本朝 付宿報
  [巻二十六#_2]東方行者娶蕪生子

話の筋は単純で下品そのもの。難しい話は一切ない。

 東へ下る男ありけり。
 とある里にさしかかった時のこと。
 その男、突然、性欲が高まり
  どうにも我慢しきれない。
 道の側らを見ると蕪あり。
  それを見てさらに欲情とまらず。
 急いで馬から飛び降り
  蕪の根に刀で穴を掘り、そこに射精。


とんでもない異常行為に映るが、ポルノ映画を見て興奮するのと本質的にはなんら変わらない。文化の違いでしかない。もっとも、そう考えることができるのはインテリだけ。

 男、その蕪を放り投げて去る。
 しばらくして、
 その畑の持主が青菜の収穫にやって来た。
  14〜15才の娘も一緒。
  その娘、くだんの蕪を食べてしまった。
 その後、娘の体調優れず。
  そうこうするうち、
  子供を産んでしまったのである。
  そうなると、育てるしかない。
 それから数年後。
 先の男帰京とあいなる。
  再び、蕪畑の側を通ることに。
  来た時を思い出し
  仲間に大声で話す。
 娘の母親それを耳にし、
  もしや、と気付いて男を止める。
 男は蕪泥棒を咎められるかと思い逃げる算段。
 一方、母親は泣いて呼び止める。
  こうなると致し方なく、
  男は家までついて行った。
 そこには娘が産んだ子。
  それが、こともあろうに、男と瓜二つ。
  男は心底から因縁を感じてしまう。
 その娘、年20余で美しいし
  子供も5〜6才で、えらく可愛い。
 男には、京に特段の係累もないので
  結婚してソコに住むことにした。


 此れ希有の事也。
そりゃ、言われなくたって当たり前。

現代感覚なら、なかなかヤリ手の母親だネ〜、となろうか。
「今昔物語集」編纂者が主催する仏教サロンに集まっているインテリも同じように考えた可能性もあろうが、その感覚は相当に違う筈である。流石、土着の人々と唸ったということ。この生活実感というか、バイタリティには圧倒されるネ、との発言がでておかしくないと思う。隔離社会から眺めることしかできない清少納言とは違い、宿報譚集巻の登場人物でわかるように、様々なレベルの人達と積極的に接し、現実社会を肌感覚で捉えようとしているから、そう感じた筈。

つまり、この譚は、社会的には"下賎"とされる人達から採ったものと言う事。

"子攫い鷲"譚同様に、、蕪から生まれた"蕪太郎"がその後どうなったか全く触れられていない点からわかるように、加工や翻案無しの"生"版なのだ。
「酉陽雑俎」など、社会的に容認されていない入墨パンクからも取材している訳で、(どうして白楽天の詩を使うのか気になったようだし、その色彩の美的センスにも注目している。)、その本朝版とも言える「今昔物語集」の編纂者も、無視されている人々の生の声をどうしても入れ込みたかったのだと思う。

そんなことに精力を使うのは、仏教サロンに集うような、異文化との交流を楽しむインテリ以外にあり得まい。
そういう意味では「今昔物語集」は正真正銘の仏教徒が作成した仏教徒のための、社会の実相を知るための説話集と言えよう。

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