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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.9.29] ■■■
[91] 野猪
🐗ヒトを騙す化け"狐"とくれば[→]、次ぎは"狸"というのが相場だが、野猪をとりあげる。

"狐"で動物としての説明をしなかったので、この辺りのセンスはわかりにくいかも知れぬ。
狐が人を化かすことが多い場所とは、都会の際であり、夜。習性からして妥当な見方と言ってよかろう。
本来的には狐は都会には入っていかない動物だが、例外的に入ってくる時もある。つまり、都会人にはそれなりに知られてはいるものの、異界に棲む印象を与えることになる。
都会環境に上手に適応して棲息できるのは狸の方で狐ではない。
つまり、非都会人である里山の住人なら、狐は"知っている"レベルではなく、"一緒に生活している"ようなもの。生業をする人の脇をうろうろしているのが普通。それは小動物がいるという利便性もさることながら、安全に家族を育てることができるからである。もちろん、開発が進んでいない時代での話だが。
僧や侍も山寺や山寺に住んでいれば、同様である。彼らにとっては狐の生態は日々見ておりよくご存知だったのである。

さて、そこで野猪だが、たとえ化けるとされていても狸の言い換えではない。正真正銘のイノシシ。基本習性から言え山や谷の獣道を駆け巡っている動物。その点で、狐とは全く位置付けが異なる。里山にも田畑荒しにやってくることがあるから、鹿ともども狩の対象にされている。

これを踏まえて、以下の愛宕護山の野猪話を読む必要があろう。
そうそう、愛宕護山のイメージも現代とは違うから、知っておいた方がよかろう。都の住民から見れば、聖なる深山の1つである。
  日枝山/比叡山
  比良山
  伊服岐能山
/伊吹山
  愛宕護山
  神峯山
@摂津
  金峯山
  高野山


  【本朝仏法部】巻二十本朝 付仏法(天狗・狐・蛇 冥界の往還 因果応報)
  [巻二十#13]愛宕護山聖人被謀野猪
 愛宕護山に長期に渡り持経する聖人がいた。
 坊外に出たりせず籠り切り。
 西方に、鹿猪の猟師がおり、
  この聖人を貴んで、常に参って、折々には供物を。
 しばらく訪問していなかったので、餌袋に菓子など入れ持詣。
 聖人喜ぶ。日頃の不審き事共など語ってから
  近寄ってきて、言う。
  「近来、極て貴き事があった。
   年来、他念無く法花経読誦しているので、霊験と思う。
   夜々、普賢菩薩がご出現なさる。
   今夜は留まって、拝礼されたらよかろう。」と。
 猟師、貴き事なので従うことに。
  聖人の幼童にも尋ねてみると、5〜6度見奉ったとお答える。
  それなら、自分もできそうということで寝ずにいた。
 時は、九月廿日余なので夜は長く待つこと久し。
  夜半過ぎ、東峰が明るくなり月が出たように見えた。
  その光は坊内まで照らすようになった。
  すると、白象に乗った菩薩が来訪し坊前にお立ちに。
 聖は泣く泣く拝礼。猟師にも拝礼しているか、と。
 猟師、答えるものの、心の内では得心できなかったのである。
  聖人ならわかるが、我身でも見えるのはおかしいと。
  確かめようと、矢をつがえて、聖人の上から菩薩を射た。
  頭越しに矢は飛んで行き、胸の辺りに。
  光は消え、轟き、逃げて行く音が聞こえてきた。
 聖人、「何と言うことをしてくれたのだ。」と泣き崩れる。
 猟師、「聖人の御目にはお見えになるでしょうが
     私如き罪深き者の前にもお目見えなされたので
     確かめてみたのです。
     菩薩に矢が刺さることはございません。
     あれは怪しい者でしょう。」と語る。
 夜が明け、菩薩の立ち位置を見ると、血がながれている。
  その跡を辿って1町ほど先の谷底に行くと、
  胸から鋭雁矢を背まで射通されて死んでいる大野猪。
 聖人はそこで心が醒めたのである。


狐譚の教訓を援用すれば、何の益もないのに、人を騙そうとするから、あたら命を捨ててしまうことになるのだ、となろうか。
つまらぬことで命を捨てるなど馬鹿げているとなろう。

このご教訓だが要注意である。冒頭でご説明したような習性の動物であるから、野猪が狐のように化けてヒトを騙そうとしている訳ではないからだ。
だからこその、菩薩姿での出現なのである。
そう言えば、ハタと気付く筈である。・・・
倭建命が伊服岐能山の山神鎮圧に向かうと、白猪が現れ、氷雨を降らせ、これが原因で命を落とすことになるとのエピソード。白猪は使いではなく正体そのものだったのである。
一般的には、山の神は侵入者に対してまずは猪を派遣する。その神意は、射させて殺させることにある。力を試しているのであり、射殺す力はあって当然。失敗者は神罰頂戴の破目に。(猪から逃げて、神を敬うことを誓って許してもらう手はあるが。)

尚、調べていないが、「今昔物語集」の野猪は久佐為奈岐とされているとの註があるらしい。しかし、題名はあくまでも野猪であるし、両者を同一と見なすのは無理筋。別書から付け加えたフリ註があるということでは。この文字、"臭いナギ"と読むのだろうから、種としては、狸ではなく日本穴熊。猪とは形態上似ている点は無く、珍しい訳でもないから、インテリが間違えることはあり得まい。狐の臭い小便ひっかけ同様に、臭い液を掛ける習性が知られていたので、化け物の特徴を持っているということで挙げられたにすぎまい。

  【本朝世俗部】巻二十七本朝 付霊鬼(変化/怪異譚)
  [巻二十七#34]被呼姓名射顕野猪
 兄は地元で朝夕の狩猟が生業。
 弟は上京し宮仕。時々帰郷。
 九月下旬の月が出なくて暗闇の頃、
  兄は、大きな林の中を通っていた時のこと。
  照射法で狩りをしていたのだが、
  辛びた気色異なる声がし、姓名を呼ばれた。
 怪しということで、弓を手に持ち、
  火を串に懸て確認しに戻ると声無し。
 又、先へ進もうとすると声がかかる。
  コイツ射てやろうと思えど
  弓持つ手と反対側なのでできない。
 これが幾晩も続いたが
  誰にも話さなかった。
 そのうち、弟が下京してきたので
  委細を話すと、確かに不思議だとなり、
  照射狩りに行ってみた。
 やはり、兄の姓名を呼ぶ声が。
 弟は、これはまやかし者の仕業と断定。
  鬼神なら、違う名を呼ぶ訳がないから、と。
 化けの皮をはがすため翌晩のでかける。
  鞍を逆向きに載せて弓を引けるようにして。
  声は以前と同じようにかかってきたので
  狙いをつけて射ると命中の手応えあり。
 帰って兄に報告し、翌朝見分に行くことに。
 兄弟揃って現場を訪れると、
  そこには木に射付けられた死んた大野猪。


  [巻二十七#35]有光来死人傍野猪被殺語
 心猛く思量ある兄弟の親が死去。
 葬送日まで間があるので、
 入棺して小部屋に安置。
 夜半、そこが光っており、怪しいと言われた。
 これは正体をあかさねばと、
  弟が現場で調べることに。
  声を出したら直に灯火をとの約束で。
 夜が来て、
  棺の蓋を裏返しにし、その上に
  髪をバラケて仰向けになって裸で寝たのである。
   刀を身体に付け隠し持っているだけ。
 真夜中になると、天井が光った。
  天井を抉じ開け降りてくる者あり。
  降り立つと青白く光った。
  棺蓋と採ろうとしたので
   弟抱き付き、刀を突き立てたのである。
 「やったそ。」と声を出した途端に
  光は消えた。
  すぐに兄も灯火を持って来た。
 抱き付いている者を見ると。
  毛が剥げ落ちた大野猪が死んでいた。
  兄弟、唖然。


この2話、ご教訓は、あたら命を粗末にして意味ない騙しに精を出す野猪の馬鹿さ加減を指摘することになっているが、その真意のほどはよくわからない。
狐と違って猛々しい動物であり、天井に登るなどおよそ考えられない。現代なら、手がつけられぬ悪戯好きの外来種 洗熊の野生化した輩と断定してしまうのではないか。それを考えると、野猪を穴熊と見なすのもわからぬではない。
ここでは、対比的に話を並べる面白さに凝っていることを見せつけようとしたのだろう。両者ともに、兄弟が登場し、弟が素晴らしい結果を残すのだが、前者は思慮深い判断が光るとし、後者では勇猛果敢さを褒める。しかし、どちらにしても、何の意味もない行動である。
野猪は確かに馬鹿な真似をした訳だが、ヒトがやったことは、それを諌めるために殺害したにすぎない。
仏教説話的な風情を醸す体裁をとっている以上、騙しに乗せられた実にくだらぬ行為以上ではない訳で、それを褒め称えるのは絶皮肉と考えることもできよう。

最後は、葬式を見せつける騙し譚。
  [巻二十七#36]於播磨国印南野殺野猪
 西国から上京中の飛脚の話。
 播磨印南野まで来たら日が暮れた。
 宿泊しようにも、人里から離れた野原の真っ只中。
 たまたま田の番小屋があり、そこで一夜を明かすことに。 
  一握りの刀を腰に佩びただけの軽装だし
   なにが起きてもおかしくない地なので
   眠らずに静かにしていた。
  夜が更けると、西方から、
   鉦鼓念仏の大勢の人がやって来る気配。
  じっと眺めると、それは葬式行列だった。
  明るいうち、葬式準備は見かけなかったから、
   どこか怪しい。
  小屋のすぐ近くまで来たので
   息を殺して身動きせずじっとしていた。
  やがて、墓が築かれ卒塔婆が立てられ
   行列は去っていった。
  そのうち、墓の上が動き始め、何者かが這い出てきた。
   人形で、裸である。
   身体に付く燐火を吹き払いながら
    小屋に向かって走って来るではないか。
  小屋に入られては殺られるだけとみて
   こちらから殺るしかないと、
   躍り出て切りつけたのである。
   鬼は倒れた。
  後は、里へ一目散。
   人家の門にしゃがんで夜明け待ち。
 朝になり、里の人達が出てきたので、
  かろうじて逃げることができたと話すと
  皆不思議がり、確かめに行くことに。
 そこには、墓を示すものは何もなかった。
 あるのは、切り殺され転がっている野猪だけ。


これを読むと、「今昔物語集」の編纂者は猪の習性をかなりご存知という気になってくる。
くだらぬ騙しで殺される野猪というご教訓を書くだけのモチーフにしか映らないが、実はすべて吟味されたシーンだからだ。
いかにも夜行性動物といった体裁で登場するが、夜間に田圃の作物荒らしにやってくることで知られている動物だからおかしな話ではない。しかし、野猪の場合、体つきからみて、本来的には山谷で昼に活動するタイプ。山での猟にしても、昼間寝ている所を見つける訳ではない。土を掘ったりして注意力散漫な頃合いを見計らうか、食餌跡を発見してそこから先を犬に追わせる方法で行うのが普通。
昼間に人が居る場所に出ればまずまず間違いなく殺戮されるので、田圃から美味い餌を頂戴するためには、夜間に侵入を図るしかないだけのこと。
つまり、猪の葬式とはその状況を物語っていると言ってよかろう。

兄弟譚では、"照射"法の猟が登場するが、これは夜間寝ている鹿や猪を灯りでビックリさせて動いたら、その気配がある場所に矢を射るというもの。猪は報復もせずにただただ殺戮されて来た動物である。

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