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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.10.3] ■■■
[95] 鈴鹿山
鬼の定義がよくわからないと書いたが、それは漫然と読むとそうなるということで、「今昔物語集」も同じという意味ではない。
例えば、「酉陽雑俎」を全編眺めると、鬼とは死霊のことで都にいるものではないことが見えてくるが、話はすべてそのようになっているということではない。前にも述べたが、分析してわかるどころか、かえって間違って眺める可能性さえある。俯瞰的に眺め、どういう考えでこの譚を収録したのか想像することによって、突然見えてくるもの。

ただ、「今昔物語集」はかなり親切で、どのように考えるべきかを語ってくれている。当たり前だが直接的に思っていることを言ったらまず間違いなく命を奪われるから、数多くの譚に埋もれて目立たなくしているだけ。

その辺りについて、もう一言付け加えておく必要があるか。

仏教サロンで自由闊達な談義を楽しむインテリ達にとっては、現実社会は、上から下まで、狂騒に明け暮れているように映ったに違いないのである。
特に、鬼に関して皆がどのように考えているか、よく捉えていると思う。一見、漫然と数多くの譚を集めているだけに映るがそうではない。お話など山ほどあり、そこからサロンでピンと来たものを採択したのである。ご教訓を書くためにピックアップしたのではない。ご教訓はあくまでも体裁であるから、それぞれの譚に合わせて適宜書いただけ。

と言うことで、「今昔物語集」から見た、当時の人々の観念をまとめてみた。

鬼は人に危害を与えるモノ。人形で現れれば人を喰い殺す。
そういう点で恐ろしく危険な存在だが、仏教や陰陽道で避けることができなくもないが、それは例外的。一般的にはたいして役には立たない。
とはいえ、僻邪のお力を頂戴する努力は悪くはないだろう。
鬼の獲物になりたくないなら、先ずは思慮深さ。そして、胆力と武器が不可欠である。現代感覚なら武芸的美しさを具えた人になること。

その観点では以下の譚が肝。題名には鬼の文字は無い。
  【本朝世俗部】巻二十七本朝 付霊鬼(変化/怪異譚)
  [巻二十七#44]通鈴鹿山三人入宿不知堂語
 伊勢から近江への鈴鹿山脈越をする若い三人の男の話。
 (北から鞍掛峠・治田峠・石榑峠・八風峠・根ノ平峠・安楽峠がある。)
 皆、使用人。
 心猛く思慮深い。
 この山中に鬼が居るとされる古いお堂があった。
  立ち寄る人皆無。
 頃は夏で、俄かに暗闇になり夕立となってしまった。
  茂った木の下で雨宿りしていたが止まない。
  そのうち日が暮れてしまった。
 「あの堂に泊まろうではないか。」と提案。
 「鬼が出るので寄り付かないお堂だが。」との反応。
 「本当かね。
  喰われるなら喰われたまでだ。
  どうせは、いずれ死ぬ身なのだから。」と提案者。
 そういうことなら、しかたないかと了承と相成る。
 と言うことで3人は堂内に入り泊まることに。
 寝ずに語り合って過ごしていたのだが、
  道中で男の死体を見たことを思いだし、
  今、それを取ってくるのはどうだろうと言い出す。
  夜中だから無理と言って消しかけたので、
  男は、着物を脱ぎ裸で飛び出して行った。
  それを見てから、もう一人も続いた。
 雨は降り続き、辺りは真っ暗闇。
  追いかけた男は、先に出た男を抜き去り
  死体の場所に到着。
  死体を担いで谷に投げ捨て、
  代わりに自分が死体のふりをしていた。
 そこに、言い出した男がやって来た。
  死体らしき身体を担ぎあげようとすると
  噛みつかれたが、
   「コイツ、噛みつくな!」と言い
  担いで駆け戻ったのである。
  そして堂前に置いた。
 「担いで帰って来たゾ。」と堂内に入ったのを見て、
 死体に扮した男はさっと隠れてしまった。
 担いで来た男、戻ると死体が無い。
 「死体が逃げたぞ。」と呆然としていると、
 死体に扮した男が出てきてすべてを話す。
 「狂ったことをするな。」と言い堂内へ。
 一方、ずっと堂内にいた男だが、
  お堂の天井格子からでてくる奇妙な顔に遭遇。
  そこで、太刀を抜いて威嚇すると
  笑い声と共に消え去った。
  どうということもなく対処しただけ。
 もちろん、夜が明けると、
  3人は山を越えて近江に入っていったのである。

「今昔物語集」編纂者は、この3人を評価するのである。もちろん、いずれおとらぬ性根の坐った豪傑ということ。
鬼が居るとの伝承はあるものの、鬼は出なかったのである。出たのは、化け狐らしきものだけ。

そして、これに絡んで、すでにで取り上げた天狗譚[→]も見ておく必要があろう。
  【本朝仏法部】巻二十本朝 付仏法(天狗・狐・蛇 冥界の往還 因果応報)
  [巻二十#_7]染殿后為天狗被乱語
物の怪祈祷の縁で、文徳天皇の女御で清和天皇の母、太政大臣良房の娘である、藤原明子と男女の仲となった金剛山の聖の話だ。所謂、天狗譚とは違う。
朝廷から見れば厄介者以上ではない輩ということ。殺す訳にもいかないので、爪はじき。殺したい人がいれば、どうぞどうぞ、大歓迎であろう。
ポイントは、聖は自らの言葉にある。恋愛の鬼となると言い出したのだ。現代用語的にア、ソウ、と受け取ってしまいがちだが、ここでは「朝廷から鬼と呼ばれてもかまわぬ。」という意味であろう。
鬼とはそういう存在。
それぞれの社会階層毎に鬼とされる人々がいるのである。

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