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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.10.15] ■■■
[107] 迷し神の地
西京極九条を出て、桂川を越えれば、そこは、かつての都跡。
そう思う人はすでに誰もいなかっただろう。何も残っていないし、洪水で人の移動も激しかった筈で。
長岳 寺戸という地名がでてくるが、長岡京に寺の跡は見つかっていないし、建造は許されなかったのかも知れないから意味深。
おそらく、長岳とはかつての都造成のための人工丘陵だろう。
・・・といった気分で読むべき譚がある。
  【本朝世俗部】巻二十七本朝 付霊鬼(変化/怪異譚)
  [巻二十七#42]左京属邦利延値迷神語
 三条天皇[在位:1011-1016年]
 石清水行幸
(1013年/長元二年十一月廿八@「続群書類従」)に、
 左京職の邦利延がお供した。
 九条で留まるべきなのに、
 行き過ぎて、長岳 寺戸に至ってしまった。
 行列の者共は、
この辺りには「迷し神」が出ると言い始めた。
 利延も聞いたことのある

 日が傾いてきたから、
 そろそろ乙訓川の山崎ノ渡に着く頃と思っていたが、
 どういう訳か
 再び、通り過ぎた筈の寺戸の岸を上る道になった。
 さらに、今度は乙訓川と思っていると、
 通り過ぎたはずの桂川を渡ることに。
 ついに、日が暮れてしまった。
 そこで、利延、ふと気付く。
 行列がいなくなってしまい独りなのだ。
 夜になってしまったので、
 寺戸西の板屋根のお堂の軒下で夜を明かすことに。
 利延思う。・・・
  左京職なのに、九条に留まらず、
  こんな場所に居るとは、訳わからず。
  しかも、同じ場所をグルグル巡るばかり。
  九条辺りで「迷し神」に憑かれたに違いない。
 そこで、西京の家に引き返したのである。
 すべて、利延が語ったこと。


京の南端は九条通りで、西端は西京極大路だが、端の端までこの2本の大通りが造成されていたとは限るまい。東側の開発に熱心だったようだが、西南隅の地に関心を払うとは思えず、大型道路建設予定地のママで畦道程度だった可能性もあろう。
その西南角地は右京九条四坊にあたるが、現代ではほとんど桂川の河川敷。当時の川筋にもよるが、それこそ沼地の際だったかも。そこら近辺から桂川を渡れば、乙訓地域になる。
言わずと知れた長岡京[784-794年]の跡地。
冒頭で述べたようにこの都には寺の遺構は全く見つからないらしい。

一方、行幸先の石清水社は川向うの男山丘陵上に立地している。当時の、周囲の状況はこんな具合。
 鴨川と桂川が合流し北側から巨椋池に入り
 池の流出口辺りで北から乙訓
/小畑川が合流し、
 その下流で北側からさらに小泉川が合流。
 そのほんの少々下流は、
  北側から西側山地の南端が迫り
  反対側が男山丘陵の大山崎峡となる。
 そこから下流は淀川と呼ぶべきだろう。

   (ちなみに巨椋池に南側から入るのが木津川。
   大きな池の西端で、北から山科川、南から宇治川が流入してくる。)

桂川で眺めれば、東側が葛野であり、西側は、現在の地名から言えば、右京・西京・伏見の一部分と向日、長岡京、大山崎。要するに、京都盆地の北と西の山地の結合部辺りが桂川の源流部に辺り、西側山地から乙訓川と小泉川が流れ出すことになる。

ここらには廃寺が並ぶ。
  樫原(廃)@葛野 山麓側
  宝菩提院
(廃)@向日丘陵
  乙訓寺
@長岡 山麓側
  鞆岡
(廃)@小泉川
  山崎
(廃)@大山崎
地域名として、西側山地ももちろん乙訓@向日 寺戸芝山と呼ぶ訳で、乙訓川流域には古墳が多いのである。(小さな塚も数えると400はくだらない。)代表的なものは以下。[→山の辺の道時代(瀬戸海)]
  恵解山120m🈭
  寺戸大塚95m🈜
  元稲荷94m[前方後方]
  五塚原91m🈠
  天皇の杜83m

そんな地であれば、訳のわからぬ亡霊だらけ必定。
しかも、桂川氾濫は数年に一回発生してもおかしくないから、長岡京造成の丘や造り掛けの道路は放置されっぱなしだったろう。そこに草木が生えているのだから、道はうねっているし、途中で消えていたりもするだろう。従って、方角がわかっていても、どこをどう歩いているのかわからなくなる可能性は高かろう。
迷ってしまえば、責任者は道を探してウロウロせざるを得ない。行列から離れて戻れなくなった訳だ。本隊は目的地に到達したが、勝手知ったると自負している京の役人がその態では、お咎めもありそう。従って、皆、"迷し神"の本意を知っていたと思われる。あそこではそういうことあるよナ〜、大変だったネ〜、狐かも知れないヨ〜、と言うだけ。

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