[→本シリーズ−INDEX] ■■■ 古事記の歴史観 [2018.11.13] ■■■ 山の辺の道時代(瀬戸海) 山の辺の道時代の一番の特徴は、奈良盆地東側山麓で大型の前方後円墳が登場したこと。そして、奈良盆地の他地域には造成されなかった点も重要である。 その代表は以下のような古墳だ。・・・ ●大和群内 西殿塚234m▲△🈠 ●柳本群内 黒塚128m🈠☚ 柳本大塚94m🈠 〇穴師丘@巻向山 ●纒向/巻向群内 箸墓276m▲▲🈠☚ 纒向石塚96m🈠☚ 〇三輪山 ---初瀬川長谷域東西流 ●鳥見山地域内 桜井茶臼山/外山茶臼山208m▲🈠 ただ、奈良盆地外である大和側支流の石川との合流点の東南の玉手山古墳だけは例外的存在と見てよいだろう。葛城〜金剛〜巨勢時代に確立した、盆地内と外の政治的二重構造がそのまま引き継がれており、この地は、おそらく葛城地区の勢力圏。 後世、巨大古墳が造成された古市には全くの手つかず。 この時代こそ、「ヤマト」という言葉の発祥だろう。 大和川水系の勢力による国家が樹立されたということ。 ただ、盆地内はまとまりがあるものの、外に出るとそうはいくまい。だが、その統制を上手く進めることができたのである。その秘訣は、奈良盆地"内+外"という二重構造政治システムにあろう。 "内"は一体感がある意思決定ができるからこそ、山の辺の道だけに大型古墳を登場させることになったが、"外"となるとそのようなことは無理である。にもかかわらず、国家としての体裁を整えることに成功したのは、一重に前方後円墳の威力であろう。 その辺りを見ていこう。 大型前方後円墳出現時の古墳と言えば、イの一番にあげられるのが箸墓。(最近は、その近辺の鏡が大量出土した黒塚がその地位を奪った感があるが。) 実際、どの古墳が先鞭をつけたのかはわからぬが。 ところが、その箸墓のコピー的前方後円墳がこの時期に奈良盆地外に造成されているのだ。 瀬戸海航路が統治下におかれるようになったことを意味していそう。 その観点では、吉備が要衝を占めていると見てよさそう。 【淀川系】 《山城》 ●木津川山城 椿井大塚山175m△🈠☚ 〇城陽平川 久津川車塚156m△🈭 ●乙訓@向日 寺戸芝山 恵解山120m🈭 寺戸大塚95m🈜 元稲荷94m[前方後方] 五塚原91m🈠☚ 天皇の杜83m ○京都 山科 御廟野70m[八角]38m◇🈗 《摂津》 〇茨木 紫金山110m🈜 ●三島野@淀川北岸(茨木〜高槻)丘陵部 太田茶臼山227m▲△🈭 今城塚190m△🈝 岡本山120m🈠 弁天山100m🈠 【瀬戸海】 《播磨》 ●姫路 丁瓢塚99m🈠 ●神戸垂水 五色塚194m▲🈜 《吉備》 ●倉敷 南 足守川 楯築墳丘墓@王墓山丘陵北域72m[双方中円形] 王墓山赤井西1号30m[方]🈝 ●岡山 浦間茶臼山138m🈠☚ 備前車塚48m[前方後方] 造山360m▲▲▲🈭 尾上車山135m🈭 湊茶臼山150m🈭 佐古田堂山150m🈭 神宮寺山150m🈭 ●岡山総社境 小造山142m🈠 ●総社 三須 作山286m▲▲🈠 ●赤磐山陽 両宮山192m▲🈭 ●周南 富田竹島 竹島/御家老屋敷56m 《四国》 ●高松 石清尾山塊 鶴尾神社4号40m[シャモジ]🈜 猫塚,鏡塚[双方中円] 姫塚,小塚.北大塚1.2号 北大塚3号[方] ●愛媛今治 妙見山55m🈜 ●香川大川 富田茶臼山139m🈭 《九州 豊前 周防灘等》 ●京都苅田 石塚山120m🈜 御所山119m🈭 番塚50m🈭 ●川部-高森@宇佐 赤塚58m…九州最古🈠 葛原53m[円] ●杵築 小熊山117m ●大分 亀塚116m 【北九州】 《玄界灘沿岸》 ●【奴】福岡 那珂八幡75m 拝塚75m 東光寺剣塚75m ●【伊都 イト】 銚子塚103m 端山60m 丸隈山85m 今宿大塚64m ●【伊都 シマ】@糸島 御道具山65m 泊大塚75m ●【末盧】 九里双水100m 杢路寺80m 小島43m (参照)「界灘続倭人伝−末盧・伊都:奴の古墳文化−」平成24年度秋季特別展, 伊都国歴史博物館 《筑豊》 王塚 《筑後》 ●八女 岩戸山135m 石人山107m 【有明海側】 《肥前》 (吉野ヶ里)環壕集落 銚子塚@佐賀 金立98m🈜 【南九州】 《肥後》 チブサン45m@山鹿🈝 大坊54m@玉名 江田船山62m@玉名和水/菊水…"獲加多支鹵大王"銀象嵌銘大刀出土 塚原@熊本 中ノ城古墳102m@八代氷川野津 大野窟122m@八代氷川大野🈝 《日向〜大隅》 ●生目@宮崎 生目3号137m🈜 生目1号130m ●西都原@西都 女狭穂塚176m△…九州最大🈭 男狭穂塚176m[帆立貝]△ ●茶臼原@西都 児屋根塚110m ●新田原@新富 百足塚76m ●延岡 菅原神社120m ●持田@児湯高鍋 持田1号120m ●大隅半島 唐仁大塚140m🈭 横瀬大塚山135m🈭 塚崎51号…列島南限 ここでの驚きは北九州玄界灘地区の存在感がえらく薄い点。要するに、北九州勢力が力を失ったのである。これは、インゴット輸入の「鐵の道」支配が崩れさったことを示唆している。 鉄の大量消費地へのルートが瀬戸海になったことを意味していると言ってもよかろう。当然ながら、生産地にしてみれば、大量輸出可能な勢力を優遇することになるから、北九州勢力が押さえていた日本海ルートが衰えたということ。今迄繁栄していた日本海側だが、それだけに宗旨的には前方後円墳を導入しんくかったに違いない。古墳造営による経済発展の大きな波に気付いていなかかったのだと思われる。 玄界灘地区の前方後円墳はおしなべて小振りで、日向〜大隅の方は大型なのだから。 ともあれ、吉備 v.s. 北九州の力関係は一変した。 それは吉備自体の力というよりは、中央勢力との強固な同盟関係があったから。北九州勢力はその重要性がわからなかったのである。倭とは部族集合体であり、発展はしているものの、単なる豪族連合体にすぎぬと見ていたのであろう。 (ご注意) インターネットリソーシスの、Wikiと公的らしき組織の様々な目的の解説から引用しているが、情報そのものに矛盾点は少なくない。出典未詳が多く、情報の質はまちまちだし、著者名も記載されていないのが普通。・・・そのような情報の集成として御覧になって頂きたい。それに加えて、小生が一部改変している。 表紙> (C) 2018 RandDManagement.com |