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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.10.16] ■■■
[108] 目利き
目利きとは、器物・刀剣・書画などの真偽・良否の鑑定眼をさすが、なにが肝心かの知識があり、真偽・良否を冷静に判定できる力がるという点ではなんにでも通用する概念である。
そんじょそこらの石に銀が入っていることを見つけるのはまさしく"目利き"だが、上手い投資も"目利き"のワザそのもの。
逆に、いかにも鈍な馬鹿国司が行った施策で溜池決壊を招くのは、"目利き"力ゼロということになろう。
「今昔物語集」の編纂者はこうしたマネジメント力について淡々と語っておりいかにも都会的自由人の発想。
しかも、家柄、身分、信仰とは全く無関係であり、社会を良く見ていることがわかる。
「酉陽雑俎」だと、インターナショナルな都 長安では珍しくもない事業家ということになろうが、本朝の都も同じようなものだったのである。

先ずは、現代でも通用ししそうなそんな"目利き"な人物譚。
  【本朝世俗部】巻二十六本朝 付宿報
  [巻二十六#13]兵衛佐上主於西八条見得銀語
 綽名を"上の主"とつけられた兵衛佐の話。
 (武官の正装冠の箱形の羅に付けた上/おいかけが長いということ。)
 西八条京極の畠中に賤なる小家があったが、
 その前を通行していた時に夕立に遭遇。
 下馬し、その小家に入ってみると、そこには嫗が一人居た。
 馬をも引き入れ、夕立を過ごしていたのだが、
 家の内に、碁盤の様な平な石があったので、
 それに尻をのせた。
 この坐った石を石で叩いてみたところ
 窪みができ、そこは銀だった。
 土で剥げた場所を隠してから
 その石の由来を尋ねたのである。
 わからないが、昔からおいてある、との返答。
 さらに、もともとはどうだったのか確かめると、
 伝承では長者の家で、蔵跡だろうとのこと。
 確かに、土台らしき跡が沢山ある。
 坐っている石も、畠にする時、掘りだしたもの、と。
 取り除こうと思ったが
 無理なのだ、家のなかにあるだけとのこと。
 "上の主"これはチャンスと思いすかさず言う。
 「この石は、
  ココでは不要でも
  我が家では使うべきモノ。」
 嫗は、
 「すぐにでもお持ち下さい。」と。
 早速、その近所の知り合いから車を拝借し
 その石を運ぼうとしたが、
 只で取るもの罪深い気持ちがするので
 衣を脱いで嫗に与えた。
 嫗、騒ぐほどのビックリ度。
 不要の石でこのような財を頂戴してと
 棹に懸て"穴怖し"と言って拝礼するほど。
 "上の主"は持ち帰ったこの石を打欠いて
 米・絹・綾などを入手した。
 さて、話はかわって。
 西四条より北、皇賀門より西の地域は、人も住まぬ処。
 1町余りもある湿地帯で、
 畠にもならないし、家にも不向きなので
 安くても売れれば良しの地。
 "上の主"は、そこを、易い値で買ったのである。
 入手すると、摂津に向かった。
 先ず、船4〜5艘に、
/平田舟を付け、難波の辺に。
 酒・粥などを沢山用意し、
 鎌も数多く揃え、
 葦苅してくれれば酒・粥提供ということで
 往還する人々を招き寄せた。
 3〜4日で山のような量に達し
 船10艘以上で教へ登った。
 その場合も酒と提供して、
 往還の下衆に船の縄手を引かせたので
 極めて迅速に賀茂の河尻に到着。
 そこで、車を借り、
 又、同様な方法で荷を、例の入手した湿地に運ばせた。
 雇い入れた多数の下衆を使って、
 葦を敷きその辺りの土を被せて造成したのである。
 この地の南の町には、大納言源定の家があり、
 南北二町になるということで、
 北側にあるこの造成地を買い取ったのである。
 今、西の宮と呼ばれる場所である。
 "上の主"、ここでも儲けたのである。


次は、讃岐の満農池@仲多度の話。
周囲が20kmもある日本最大の灌漑用溜池。701年国守 道守朝臣が創築し、821年空海が築池別当として派遣され改修とされている。
ココには天狗譚[→]が伝わっているが、無能なお方のお蔭でえらい目にあった話も収載されており、その対比が面白い。
  【本朝世俗部】巻三十一本朝 付雑事(奇異/怪異譚 拾遺)
  [巻三十一#22]讃岐国満農池頽国司語
 讃岐には大きな満農池があるが、
 これは高野の大師
(弘法大師)が、
 人々のことを哀まれ、お築りになったもの。
 廻りは遥かに遠く、堤も高いので、
 池と言うより、海に見えるほどで、
 彼方が幽かなる状態の広さ。
 考えてみると。造成後、長久というほど、頽れることもなく来た。
 そこで、この国の人々は、
 田を作っても旱魃被害も受けずに済んだ。
 皆、心底喜び合って来たのである。
 上から数々の川が流入しているので
 水が湛えられており枯れなかったのだ。
 そんなこともあり、池の内には大小多数の魚が棲んでいた。
 土着の人々は普通に魚を獲っていたが、
 池はいつも魚で満ちていたのである。
 そうこうするうち、
 国司が赴任してきて、
 館の雑談で
  「満農の池には、
   数限無く魚が棲み、
   三尺の鯉なども。」
 との話ありと耳にする。
 そこで、欲がでて
 この池の魚を取ろうとしたが、
 水深が深く仕掛け定置網が使えない。
 そこで、池の堤に大きな穴を通し、出水させ、
 そこに魚が入る物を仕掛けることに。
 水が走り出るに随い、
 その穴から数多の魚が出たので、
 漁果は凄まじい。
 その後、穴を塞ごうとしたが、
 出水の勢いは強く、塞げない。
 もともと、
 池には
[=水門]が設置されていて、
 そこを流出口とする構造。
 ところが、堤を通してしまったので、
 穴は頽れて行き、その箇所が広くなっていく。
 そのうち、大雨で、上流の水量が増し、
 池は満杯となり、
 その穴がモトとなって、堤突が決壊してしまった。
 池の水はすべて出尽くし、
 家屋・田畠はすべて被害を受けた。
 魚も流れ出て、そこここで、皆人に取られてしまった。
 その後は、貯水量は少なくなり、池も皆失せ、跡形も無し。


もちろんご教訓は、国守の欲心が原因で酷い目にあったいうことに。なにせ、空海が全力をあげた讃岐の宝を、壊滅に追いやったのだから、その罪重しである。

だが、本心は、それとは別では。

国守は常識を欠くほど無知な人物。どうなるかの予想も全くつかぬ無能なリーダーに過ぎまい。
その手の御仁には、まともなスタッフやサポートが必要で、そのお蔭で上手く回っている場合も少なくないが、そのような人材がさっぱり寄ってこない人も少なくない。
しかし、そういう人こそ出世し、地方組織の長になれるゼ、と書いてあることになる。そんなこと、ママ、書ける訳がないが。
本人が自覚していない馬鹿者ほど御しやすい者はいない。しかも、浅知恵の行為をおだてれば、一所懸命に支えてくれるから有り難い存在でもある。蔭では馬鹿にしていても、組織安定のためには不可欠な人物。安心人事の要なのである。
それこそが本朝組織の特徴ですナと語っている訳である。

次ぎは、下層官僚だがおカネもうけの手立てを見つけることに長けている例。没落貴族も大勢いる一方で、"目利き"力があれば、賤しき者とされていても、金銭的には大成功できることが示されている。これが商品経済で回る都会の面白さということ。
娘の豪奢な貴族的生活を描くため、文章は長い。
  [巻三十一#_5]大蔵史生宗岡高助傅娘語
 宗岡高助は大蔵で最下位の史生として働いていた。
 出かける時は、垂髪に栗毛の草馬に乗り、
 表の袴・袙・襪などには布を用いていた。
 下衆であるが、
 身のこなしや、有様など、特に賤しげ。
 家は西京の、堀河より西、近衛の御門より北で、
 八戸主の家である。
 南には近衛の御門があり、
 そこに面して唐門を建てていた。
 その門の東脇に七間の屋を造って住んでいたのである。
 敷地内には、綾檜垣を廻し、
 その内に小さいが五間四面の寝殿を造っていた。
 そこには、高助の娘二人を住ませていた。
 その寝殿の造作といえば、
  帳を立て、
  冬は朽木形の几帳の帷を懸け、
  夏は薄物の帷を懸き
  前には唐草の蒔絵の唐櫛笥の具を立て、
  女房は20人ほどを侍らしており、
  全員、裳唐衣を着せていた。
  娘一人につき女房は10人である。
  童4人には常に汗衫を着せ、二人づつ仕はせた。
 この女房・童は、皆、然るべき蔵人経験者の娘で、
 父母を無くして生活に迷っているところを、
 盗むが如くに連れてきたので、
 一人として拙き者なしという状態。
  :
  :
姫君扱いで、
  :
ほとんど宮様の家とかわらぬ状況。
  :
 もちろん侍も。
 落ぶれた尊の子共を連れてきているので
 気高く格式ある家の人達そのもの。
 父である高助は、
 出歩く時にはほとんど気にしない姿だが、
 娘の方に行くとなると、
 綾の襴に蒲萄染の織物の指貫を着て、
 紅の出し袙をして、薫をしたりする。
 妻は細の襖を着ているところ、
 娘の方に行くとなると、
 脱ぎ棄てて、色々に縫重たる衣を着る。
 力の及ぶ限り、最高の扱いをしていたのである。
 そんな折、
 池上の寛忠僧都が、造堂供養をしていたところ、
 高助が訪れ、
 「御堂供養は極て貴いので、
  賤ではありますものの、
  童部にも見物させたいのですが。」と云う。
 僧都、
 「それは大変に吉き事。
  然るべき場所に桟敷をしつらえて見物させよ。」と
 許可した。
 高助は大いに喜んで帰っていった。
 この高助は、僧都に前々から仕えていたので、
 堂供養準備にも、様々に係っていて、
 見物を請い願ったということのようだ。
 さて、堂供養前日の夕方のこと。
 沢山の火を灯し、荷車2台に
/平田船を積んで
 牛共に引かせ、池の汀に降ろすものがいた。
 僧都、
 「あれは何処の者が持って来たのか?」と問うと、
 「大蔵の史生、高助の。」との答。
 僧都、
 「何のための船だろうか?」と思っていると、
 高助は周到に準備していた諸々な立派な品々を
 船にとりつけて飾ったのである。
 暁頃、
 蔀を上げた新車に、娘達を乗せてやって来た。
 その後ろには、女房の車10両ほど。
 色々に装った指貫姿の御前も10人ほど。
 前で火を燃やし続くのである。
 そんなことで、乗船。
  :
  :
その様子は艶やか。
  :
云い尽くし難し。
  :
 夜が明けて供養の朝に。
 上達部、殿上人、請僧等々皆揃う。
 高助の2艘の船は池の上を廻り行き、
 飾りたてた大鼓・鉦鼓・舞台・絹屋が光輝き
 水面に映え、この世とも思えない程微妙。
 上達部・殿上人は、
 「何の宮の女房が見物しているのか?」と尋ねるが、
 僧都が、
 「決して、彼の船と言ってはいけぬ。」と
 口封じされていたので、誰もわからない。
 この後も、この手の見物は続いた。
 このようだったので、
 上日の者、宮の侍、然るべき諸司の尉、が
 婿狙いにやってきたものの、文も取り上げなかった。
 賤しくとも、先払いできる家でなければと。
 近江・播磨の守の子でも、できないなら追っ払うと。
 ところが、婿取りしないうちに、
 この父母が続いて死んでしまった。
 兄がおり、父は妹の面倒を見るよう言い含めたが
 全ての財産を独り占めにかかった。
 娘のお付きは去ってしまい、
 嘆いて食も細り病気になり、
 看病する者もいないので次々と死んでしまった。
 この兄の子が大蔵の史生時延。


ご教訓は高助に暖かい
 昔は此る賤き者の中にも、
 此く心ばせ有る者なむ有ける。

と言っても、財が無ければそんなことはできない訳で、円熟した都会だからこそ可能な財作りの才覚を半分褒めている訳だ。
なにせ、この生活レベルは、現職の受領をはるかに越えているのだから。

北山霊厳寺のマネジメントについても触れている。
北山とは京大極殿の北側の聖地。現代的名称だと"鷹ヶ峰"か。
霊厳寺は円行が839年に創健し岩戸妙見を勧請したと伝わる。仏教伝来以前からの信仰対象の磐座の地。廃れてしまったのは鎌倉期と見られている。その後、本阿弥光悦が活躍した頃は、この辺りは日蓮宗の寺が並ぶ地域となり、このお寺も再興されたようだ。
現在のお寺は清雲山圓成寺だが、その本堂ではなく、石窟造の岩戸妙見宮があたるようだが、地形から見て磐座は裏山に存在していそう。
  [巻三十一#20]霊巌寺別当砕巌廉語
 北山霊巌寺は妙見菩薩出現の地。
 寺の前に3町ほどの地に巌石があった。
 人が屈んで通れる程度の穴があり、
 万の人〃が参詣する場所になっており、
 僧房も数多く、極めて賑わっていた。
 そんな折、
 眼病ということで、
 行幸の議が持ち上がった。
 しかし、巌石
/巌廉があるので、御輿は通れないから
 行幸無理と決まったと伝わる。
 それを聞き、
 霊巌寺の別当は、
  行幸がなれば、必ずや僧綱に成れるが、
  行幸無しなら、僧綱にはなれまいと思い、
 巌石を失くしてしまおうと決めた。
 人夫集め、沢山柴を苅らせ、巌石の上下に積み、
 火を付けて焼こうと。
 寺僧の中でも、老僧達は、
  此の寺の霊験は、
  この巌石に依っている。
  失われれば、それが無くなり、
  寺も廃れてしまうと云い合ったが
 別当は、聞かずに火を付けた。
 そうして、大きなる鉄槌で打ち砕いたので、
 すべて砕けて散々に。
 その時、
 砕けた巌石中から、百人もの笑い声が発せられた。
 寺僧達は、
 「とんでもなき態。
  この寺は荒廃する。
  魔障に謀られた。」と言い、
 別当を悪ざまにののしった。
 巌石は失なったが、
 行幸も無かったので、
 別当の喜ぶ話もなし。
 その後、別当は寺僧達に、悪し様に嫌われ、
 寺に寄ることもなくなり、
 そのうち、寺は只荒れに荒れるだけ。
 堂舎・僧房も皆喪失。
 僧は、一人も住まなくなり、
 その跡は、木伐の道。

単純説話だと欲深別当の話となるが、寺のマネジメント職の重要性が語られているとも言えよう。

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