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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.10.26] ■■■
[118] 智光曼荼羅
智光曼荼羅とは、元興寺の三論宗の僧 智光[709-780年]が感得した浄土変相図のこと。[→曼荼羅を知る:「浄土変相図」]

智光は元興寺内に極楽院を建立して観想念仏用に浄土変相図を安置したが、1451年に焼失。
現存本尊の阿弥陀如来像厨子の裏板に描かれている図絵が同じと伝えられている。
(他にも室町後期とされる厨子入本、鎌倉前期の板本、絹本模写絵がある。)
この図絵を曼荼羅として細かく見ると、6領域に別れていることになる。
 中心は
  阿弥陀三尊会…18聖衆が眷属
 囲うのが
  宝楼閣
  虚空
 前に配置されるのが
  舞楽…池上に6舞楽菩薩
  宝池…左右橋上に2比丘
 左右には
  宝樹


「今昔物語集」の往生譚シリーズに、この由縁譚が収載されている。編纂者は重視していることを示すためにイの一番に持って来たようだ。
  【本朝仏法部】巻十五本朝 付仏法(僧侶俗人の往生譚)
  [巻十五#_1]元興寺智光頼光往生語
 元興寺に智光と頼光という二人の学僧がいた。
 長年同じ坊に住んでいた学友。
 頼光は、老年迄ずっと怠けており
  学問もせず、口も聞かないし、昼寝ばかり。
 一方、
 智光は、熱心に学問に励み、立派な学僧に。
 そのうち、頼光が逝去。
 智光思うに、
 「長年の友だったが、
  長い間、口も聞かず、学問もせず、寝てばかりだった。
  これで、死後の報いはどうなるのだろうか。」
 「善いか悪いか考えると、悪い報いだろうか。」
 と嘆いていた。
 気にかけて2~3月ほどたったある夜、夢を見た。
 頼光が居る所に行った。
 そこは荘厳微妙な地であり、まるで浄土。
 おかしいので、頼光にココは何処か尋ねた。
 すると、ココは極楽との返事。
 私がどうなったかずっと気にかけてくれたから、
 転生した場所を教えただけと言う。
 「すぐに、帰るように。ここは君がいるべき場所ではない。」
 との事。
 そこで、智光は尋ねた。
 「私は極楽浄土に生まれたいと願い続けて来た。
  どうして、帰らなければいけないのか?」
 頼光は即返答。
 「君には浄土転生に当たる善業が見当たらない。
  だから、すぐに帰るしかないのだ。」
 智光、疑問を呈す。
 「君は生前、さっぱり修行をしていなかった。
  それなのに、どうして浄土に生まれることができたのか?」
 頼光説明。
 「君は分らねばならない。
  私は往生の因縁で転生したのだ。
  昔、数多くの経論を読破。
  そして、極楽に生まれたいと願った。
  ただただそれだけを深く思って、口も聞かなかった。
  阿弥陀菩薩のお姿と浄土の美しい様子を観想し、
  他念を捨て、静かに臥していた。
  その長年に渡る功徳が積もって、極楽往生できたのである。
  一方、君は、経文の勉強一途。
  意義や道理を学んで、智恵は明らかとはいえ、雑念だらけ。
  これでは、善根が少なすぎる。
  未だに、浄土に生まれる種さえない段階。」
 そう言われた智光、泣き悲しんでしまった。
 「私は、どうしたら極楽往生できるのだろう?」
 頼光、答がわからないから阿弥陀仏にお伺いしよう、と。
 仏に詣で、合掌礼拝して伺ったのである。
 そして、仏のお言葉を頂戴する。
 「仏の姿と極楽の美しい有様を観ずべし。」
 智光、凡夫の心では、とても観想できません、と言うと
 仏は、右手を挙げ、その掌中に小さな浄土を映し出してくれたのである。
 丁度、そこで、智光は夢から覚めたのである。
 智光はすぐに絵師を呼んで、その小浄土の有様を描かせ、
 以後、浄土観想に没頭し、極楽往生することができた。
 そんなことで、智光の坊は、極楽房と命名され、
 その絵を掛け、念仏を唱える講が、
 今も引き続き行われている。


学僧が、友の死を切欠に、僧の意味を問い返し、学びばかりの生活に疑問を感じ大転回を果たす話である。ここには何の奇跡も無ければ、現生の福徳も一切関係していない。
信仰の原点とは何かを示していると言ってよいだろう。

従って、この譚から「今昔物語集」編纂者の考え方を読み取れると考えない方がよいだろう。
入手可能な仏教書をほとんど読破した「酉陽雑俎」の著者の姿勢のアナロジーで考えると、リベラルアーツ的な学問は極めて重要となるからでもある。だからこそ自分の本心を知ることが可能となり、信仰も確固たるものになる。それ故に、仏教サロンやインターナショナルな交流は不可欠であるし、かつ愉しいものなのだ。
そこには、信仰はあくまでも個人のもので、他人はその内実はわかりようがないし、強要するなどもっての他という強い意志がある。だが、同時に、将来に関しては悲観的だった。
教学主導の宗教と化すと、信仰が、その本質からどんどん遠ざかってしまうからだ。
そのポッカリ空いた空洞に個人の内面まで強制する、官僚統制型宗教が入ってくるのに時間はそうかからない。そんな人々だらけの社会になってしまいかねないと危惧していたのは間違いなさそう。そして、おそらく毎日欠かさず経典読誦をしていた仏教徒でもある、「酉陽雑俎」著者の予想は見事に的中したのである。

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