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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.11.4] ■■■
[127] 迎講創始者
迎講とは、阿弥陀如来と菩薩等の来迎引接法会を指すようだ。

現代でも行われているが、野外で行われる仮面宗教劇として民俗芸能の一種として紹介されることが多い。法会の儀礼が劇化したと見なされているのだろう。そのハイライトは、菩薩面装束者と楽人(振鼓・鶏婁鼓演奏)が先導する行道である。
(現在の迎講寺:當麻寺、誕生寺@美作、泉涌寺即成院、得生寺@有田、大念仏寺@平野、九品仏浄真寺、太山寺@神戸、十念寺@平原、久米寺、矢田寺、等。)

小生は、この"お練り"は、極楽浄土への往生の法悦を体験しようとの、講の心根を伝えていると見る。
阿弥陀仏と諸菩薩がお揃いの極楽浄土曼荼羅図絵を前にして"観想"するのは、ややもすると思弁的になりがち。ところが、具体的に来迎して頂く情景が眼前に広がれば嬉しくなる訳で、それが祭祀化するのは自然な流れと言えよう。

極楽浄土信仰者でなくとも、そのなかに入っていける極めて開放的で大衆的な法会と言って間違いなかろう。その前身が法話を中心とする《講》である。
すでに、地蔵講[→]は取り上げたが、上述した流れをついつい感じてしまう《講主宰》譚が3つ連続しているので見ていこう。

  【本朝仏法部】巻十五本朝 付仏法(僧侶俗人の往生譚)
  [巻十五#22]雲林院菩提講聖人往生語
  [巻十五#23]丹後国迎講聖人往生語
  [巻十五#24]鎮西行千日講聖人往生語

注目すべきは、ここの話は"迎講"が始まった由縁である点。【丹後】の聖人が始めたとしており、素人的には「往生要集」の源信が創始者と考えがちだが、そうではないと指摘しているとも言えよう。往生に関係する話を全て源信にしてしまう風潮に棹差すような姿勢を見せたと考えることもできよう。
それは源信の考えていた原初の講とはかなり違う気がすると言っているようなもの。
おそらく弟子だろう。

 丹後の聖人の話。
 極楽往生を願い、ただただ聖衆来迎を待ち望んでいた。
 正月に際して、願い事をして祝う風習があるので
 それに倣って行うことに。
 大晦日に書状を小僧に持たせ、
 明けた元旦に門を叩き「物申さん」と言わせる。
 「何処から?」と訊くから、
 「極楽から阿弥陀仏の御使で御文を持参。」と答えよ、と。
 小僧は言われた通り行う。
 聖人は書状を頂戴すると、
 「娑婆世界は衆苦充満している。
  早く厭離し、念仏修善勤行に我国に来たれ。
  我は聖衆と共に来迎する。」と読んで涙を流すのであった。
 毎年、この行事を怠らずに行なっていた。
 丹後に国司が赴任。
 聖人の話を聞き、対面することに。
 国司は「何事でも仰って下さい。結縁しますので。」と言い出したが、
 聖人は「遁世の身なので、所望はございません。」との返事。
 国司は「それはわかりますが、何かあるでしょう。」と訊くので、
 「"迎講"と名付け、聖衆来迎の装いで、心を慰める法会を行い、
  往生の準備をしたいもの。」と言った。
 国司は早速に応えて、
 所望の仏・菩薩の装束を作らせて送ってきた。
 これが迎講の始まり。


尚、「古事談」によれば創始者は寛印供奉で、「沙石集」によれば、住んでいた地とは鳧鴨/普甲@宮津らしい。

同じことが、"菩提講"にも言えるかも。こちらは、極楽往生を願う人のために、法華経を講説・讃嘆する法会。
雲林院@紫野[西方は墓地の船岡山]では、886年に夏安居の期間中に法華経を講じる「安居講」が始まっており、その発展形と見るべきということになる。
しかし、信仰の原点を考えてみれば、その立役者は学僧である筈がなかろうというもの。

 雲林院で菩提講を始めた聖人の由来について。
 出身は鎮西
/九州。プロの盗人で、逮捕入獄が7回目。
 ここまでの回数に達するのは滅多にないので、
 検非違使達も対処方法を議論し、
 公儀の御敵だからと足切りの刑とした。
 刑場の川原に連れていったところ、
 運勢判断が外れないとの評判の、人相見が通りかかった。
 見物人が集まっているので近寄ると
 足切刑開始寸前。
 人相見はすぐに足切り役人に放免するよう頼むが
 検非違使が大悪人と認定しており駄目だ、と。
 人相見はすかさず言う。
 「極楽往生する人相であり、足を切ってはならぬ。」
 足切り役人は、
 「おかしな占いだ。
  こんな大悪人が、極楽往生する訳がない。
  理屈に反する人相見だ。」
 と言い放ち、執行にかかる。
 すると、人相見は、咎人の足の上に横になり、
 「代わりに、私の足を切れ。
  往生する人相の男の足を、私の目の前で切らせたら、
  私は仏罰を受けてしまう。」
 と大声で喚いたのである。
 どうにもならないので、足切り役人は検非違使に報告しに行く。
 再び検討の結果、長官の裁可で足切刑は止めて追放だけに。
 その後、その大盗人は、深く道心を起こし、
 髷を切り法師に。
 日夜、阿弥陀念仏を唱え、極楽往生を願がうように。
 そうこうするうち、雲林院に住み菩提講を始めるように。
 入滅は、人相見の言う通り、非常に尊い様子だったという。 その菩提講は途切れることなく今も続いている。


3ツ目の譚の千日講とは、1,000日間、法華経を読誦・講説する法会のこと。

筑前観世音寺@太宰府のかたわらの極楽寺の聖人は講の終了日に往生したいとの所願を果たした。
続いての千日講では、本能登の聖人が逝去したが、その後の尼はそうはならなかった。

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