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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.11.10] ■■■
[133] 尸解
「今昔物語集」が極楽往生話をこれでもかという程集めているのは(巻十五だけで54譚)、時代状況を考えればよくわかるが、数を揃えることで気付きを与えるようになっているとも言える。

但し、その書き方にはかなり神経を使っていそう。
その理由は、談論の場に切れ者がいたせいではないか。だからこそ、危うい話は予め欠文化できた訳で。

極楽往生祈願話については、こんな指摘があったのでは。
信仰の原点としてはよくわかるが、信仰に足る根拠がいかにも薄弱と。マ、そんな不信心者も結局は改心する譚も収録されている訳だが。

そのため、現実の往生がどんな具合か、俯瞰的に眺めることができるようにしてくれたのだと思う。

言い換えれば、微妙なる音楽が聞こえ、芳香が流れ、清浄感が支配する、妙なる入滅環境ができるという点と、他の人の夢で転生先を伝えたという点の2つが極楽往生の"証拠"とされているとということ。

ところが、そのなかに、若干異質な話が紛れ込んでいる。往生譚集を作ろうという意図の本ではないから、割愛してもなんら問題はないのに、入れ込みたかったのだろう。

  【本朝仏法部】巻十五本朝 付仏法(僧侶俗人の往生譚)
  [巻十五#20]信濃国如法寺僧薬蓮往生語

と言っても、遺体と持経が消えて無くなってしまったというだけの話なので、そんな風に感じない読者の方が多かろう。
マ、そういうこともあるだろうと読めばよいだけのことだから。そうなれば、〆の解釈談義も気にならず、納得して終わることになる。

しかし、「酉陽雑俎」を読んでいればそれは難しい。この入滅スタイルは道教的仙人願望の核たる「尸解」そのものだからだ。当然ながら、そんな例はいくらでもある。中華帝国の各地の土着信仰の集合体たる道教の核である、「不老不死」観を支える重要な事跡なのだから。
  [→「酉陽雑俎」の面白さ]

「今昔物語集」編纂者がそれを知らない筈はないが、一切触れていないのである。
成程。

筋は単純。・・・
 信濃高井中津(中野)の如法寺の僧 薬蓮の話。
 日夜、阿弥陀経読誦し、欠かさず阿弥陀の念仏を唱へていた。
 妻子があり、一男一人女。
 ある時、この2人の子を呼び告げたのである。
 「我れは、
  明日の暁、
  極楽往生する。
  速やかに衣裳を洗ひ清め、
  沐浴しようと思う。」と。
 そこで浄衣をそろえた。
 夜に入る頃、薬蓮は、古い衣を脱ぎ捨て
 沐浴して清浄にした上、浄き衣を着て、
 独り堂に入った。
 そして、子達に申し渡したのである。
 「明日の午の刻になったら、
  堂の戸を開くように。
  その前には、決して戸を開いてはならぬ。」と。
 これを聞いて、
 泣きながら終夜堂の辺を離れずにいた。
 寝ないでいると、
 暁になると、堂内から微妙な音楽が流れて来た。
 奇異なことであり、夢かと思っていたが、
 そうこうするうち夜が明けた。
 午の刻となったので、堂の戸を開けたのだが
 そこには薬蓮の身体は見当たらない。持経の阿弥陀経も無い。
 「現の身にて往生」ということになった。


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