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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.7.27 ■■■

屍解

仙人を簡単に定義するなら、"不老不死を実現した人"となろうか。
そして、仙人を目指す修行者が道士である。成就のメルクマールが"屍解"だろう。

「酉陽雑俎」も当然ながら、"屍解"を取り上げている。

思うに、仙人修行が流行った理由の一つが、"屍解"確認の開棺イベントだろう。非道教信者以外は、何のためにそんなことをするのか、疑問を持つだろうが、信仰者は逆である。遺骸無しということで、自らもそうなれることを夢見てさらに修行に励む訳だ。
おそらく、何時昇天するかは教派指導者しかわからず、早めに開棺すると昇天が不可能になってしまうから、決して開棺するな、との論理も確立していた筈。

人死形如生,足皮不青惡,目光不毀,頭發盡脱,皆屍解也。
白日
[=真昼間]去曰上解,夜半去曰下解,向曉、向暮謂之地下主者。
太一守屍,三魂營骨,七魄衛肉,胎靈録氣,所謂太陰練形也。
趙成子[B.C.622年死去]後五六年,肉朽骨在,液血於内,紫色發外。
又曰若人暫死,適太陰權過三官,血脈散,而五藏自生,白骨如玉,三光惟息,太神内閉,或三年至三十年。
又曰白日屍解自是仙,非屍解也。
鹿皮公呑玉華而流蟲出屍,王西城漱龍胎而死訣,飲瓊精而扣棺。
仇季子咽金液而臭徹百裏,季主服霜散以潛升,而頭足異處。K狄咽虹丹而投水,寧生服石腦而赴火,柏成納氣而胃腸三腐。

   [卷二 玉格]

"屍解"については、葛洪[283-343年]:「抱朴子」論仙篇での記載がよく知られている。

又按漢禁中起居註云、少君之將去也、武帝夢與之共登嵩高山、半道、有使者乘龍持節、從云中下。云太乙請少君。帝覺、以語左右曰、如我之夢、少君將舍我去矣。
數日、而少君稱病死。久之、帝令人發其棺、無屍、唯衣冠在焉。
按仙經云、上士舉形昇虚、謂之天仙。中士游於名山、謂之地仙。下士先死後蛻、謂之
屍解仙。
今少君必屍解者也、近世壺公將費長房去。及道士李意期將兩弟子去、皆託卒、死、家殯埋之。積數年、而長房來歸。又相識人見李意期將兩弟子皆在縣。其家各發棺視之、三棺遂有竹杖一枚、以丹書於枚、此皆
屍解者也。
武帝、少君と嵩高山に登った夢で、少君の逝去近しを知る。
数日後、病死。
暫くして、棺を開けると衣冠のみにて、屍無し。
仙経の分類:
天仙・・・上士 形ママで虚に昇る。
[=体ごとの昇天]
地仙・・・中士 名山に遊ぶ。
尸解仙・・・下士 先ず死す。その後に蛻す。
[=脱皮]

尸解仙の設定は秀逸。
言うまでもないが、思想を確立した誰でもが知るようなポジションが「天仙」。それを目指して修行する訳ではないのである。道教を少しでも知ると、天がいわゆる極楽とは違うことがすぐにわかる。そこは、官僚制度で縛られ、ヒエラルキーができあがっているところ。そこは娑婆世界と何ら変わらないどころか、天官の直接的な差配下で生活することになる訳で、自由の謳歌など不可能になるのは間違いない。
それよりは、世事を忘れ、「地仙」となって、名山に遊びたくなるのは道理。
しかし、そのような仙人ばかりでは教派活動ができる訳がない。政治ともかかわりながら、配下に多くの道士を抱えたいなら、「尸解仙」のポジションは不可欠である。
単にそれだけのこと。

成式が引いている趙成子とは、晋の文公の側近。戦国七雄の趙(首都:邯鄲)の祖とされる、趙衰のこと。71仙人が紹介されている劉向:「列仙傳」では、介子推にその名前が登場する。

介子推者,姓王名光,晉人也。
隱而無名,ス
趙成子旦有黄雀在門上,晉公子重耳異之。與出居外十餘年,勞苦不辭。及還,介山伯子常晨來呼推曰:「可去矣。」推辭母入山中,從伯子常游。後文公遣數千人,以玉帛禮之,不出。後三十年,見東海邊,為王俗賣扇。後數十年,莫知所在。
王光默,享年遐久。出翼霸君,處契玄友。推祿讓勤,何求何取。遯影介山,浪跡海右。


「列仙傳」には、鹿皮公も入っている。

鹿皮公者,川人也。少為府小吏木工,舉手能成器械。岑山上有神泉,人不能至也。小吏白府君,請木工斤斧三十人,作轉輪懸閣,意思生。數十日,梯道四間成。上其,作祠舍,留止其旁,絶其二間以自固。食芝草,飲神泉,且七十年。水來,三下呼宗族家室,得六十餘人,令上山半。水盡漂,一郡沒者萬計。小吏乃辭遣宗家,令下山。著鹿皮衣,遂去,復上閣。後百餘年,下賣藥於市。
皮公興思,妙巧纏綿。飛閣懸趣,上揖神泉。肅肅清廟,二間。可以陌|,可以永年。

成式は無視しているようだが(伝承話ではなく、後付け話と見たのかも。)、"屍解"例で一番有名なのは以下の黄帝のお話。
棺には屍無しで剣ありとされているから、宝剣を用いた"屍解"と見てよかろう。(龍に乗ってママの形で天に召され話がある一方で、棺に亡骸を入れて埋葬したという話もあり、矛盾している。)
ともあれ、剣解法という登仙術の由緒として紹介されることが多い。但し、正真正銘版は、周の霊王[n.a.-B.C.545年]の太子である晋[字:子喬]の墓が盗掘された話の方。[「太平廣記」神仙四]

王子喬墓在京陵戰國時。有人盜發之。都無見。惟有一劒懸在壙中。欲取而劒作龍虎之聲。遂不敢近。俄而徑飛上天。《神仙經》云:真人去世。多以劒代。五百年後。劒亦能靈化。此其驗也。出《世説》
王子喬墓 暴かれし。
墓室に残りしは、ただ一振りの剣。
手に取ろうと欲すれば、
たちまちにして天空に飛び去れり。


黄帝者、號曰軒轅。
能劾百神、朝而使之。
弱而能言、聖而預知、知物之紀。
自以為雲師、有龍形。
自擇亡日、與群臣辭。
至於卒、還葬橋山、山崩、柩空無屍、唯劍在焉。
仙書云
黄帝采首山之銅、鑄鼎於荊山之下、鼎成、有龍垂髯下迎帝、乃昇天。
群臣百僚悉持龍髯、從帝而升、攀帝弓及龍髯、拔而弓墜、群臣不得從、望帝而悲號。
故後世以其處為鼎湖、名其弓為烏號焉。

黄帝は雲師で龍形。自ら死亡日を指摘し、群臣に辭を発す。亡くなって橋山に葬られる。
その後、山が崩壊。棺は屍無く、空。入っていたのは、剣と
[=礼装用單底履(くつ)]
仙書によれば、黄帝は首山の銅で荊山で鼎を鋳造。完成すると、龍が迎えに来訪。
昇天時、群臣百僚はことごとく龍の髯と帝が持つ弓にぶる下がって追随を図る。両方ともに墜ちてしまい、帝を望んで悲號に暮れる。


一方、老子[→]は、「列仙傳」では特段の話はなく、実に淡泊。・・・

老子姓李名耳,字伯陽,陳人也。生於殷,時為周柱下史。好養精氣,貴接而不施。轉為守藏史。積八十餘年。
史記云:
二百餘年時稱為隱君子,諡曰
。仲尼至周見老子,知其聖人,乃師之。後周コ衰,乃乘青牛車去,入大秦。過函關,關令尹喜待而迎之,知真人也,乃強使著書,作《道コ經》上下二卷。
 老子無為,而無不為。
 道一生死,跡入靈奇。
 塞兌内鏡,冥神絶涯。
 コ合元氣,壽同兩儀。


(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡 社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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