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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.11.19] ■■■
[142] 「日本往生極楽記」
慶滋保胤についてはすでにとりあげた。[→]
  [巻十九#_3]内記慶滋保胤出家語

1譚だが3話構成で、どれも俗世間の感覚とは相当に乖離している僧が描かれている。注目すべき点を書いておこう。

<その1>陰陽道的法事をする僧に対し、そのようなことを止めろと暴力的に他人の持ち物である冠を壊すのだが、そんなのは理屈であって、食べていくためには必要な行為と言われてしまう。大多数の人々は理念だけでは生きていけないのだヨ、と諭されているようなもの。言外には、そんな心配をしたこともない学識のある高僧には、このような生活実感はわかるまいと批判したとも言えよう。それに対して、説得など無意味であることを知っているので、泣いて思いを伝えたのである。そして、せっかく皆の喜捨で集めたモノをすべて渡してしまう。
信奉者やシンパはその心根を尊ぶだろうが、人々の願いであるお寺の建造費用を勝手に流用していることは間違いないから、一般人の感覚とは相当に乖離していると言わざるを得まい。
<その2>六条院に召され、騎乗して向かうものの、馬の思うママにする。お迎えにあがった従者も、しかたなく従うことになる。馬なら、すぐに到着する距離だというのに、半日かかってようやく。一般感覚では、それ位なら、行かねばよかろうし、馬と付き合って時間を潰してどういう意味があるかさっぱり理解できない。凡人には、召されたから逆らえぬという論理しかわからない訳である。
<その3>下痢便を漁る犬に申し訳ないと、お客様扱いして立派な食事を差し上げる。ヒトのマナーに合わせることはできないことを無視して同等扱いするが、結果的にはほとんど意味がない。世間には犬扱いさせられているヒトなど五万といる訳で、世間の眼から見れば、犬とヒトを差別してならぬというドグマに従っているだけに映る。江戸期の犬公方様を彷彿させる行為だ。

ただ、このような世俗感覚と相容れぬ姿勢を見せたからこそ、上流の人々には大いに愛されたということでもあろう。何故なら、もともと、どのような人だったかを知っているからである。

おそらく、「今昔物語集」編纂者も慶滋保胤にはひとかたならぬシンパシーを感じていたと思う。
と言うのは、文章生主席で漢学の源順とも親交があり、改名(慶慈を"カモ"と読ませる。)で自らの文人志向を鮮明に打ち出した人でありし、文章生主席で漢学の源順とも親交が深く、当代一のインテリだったからだ。

その慶滋保胤の代表的著作は「日本往生極楽記」@987年。漢文体で記された、42項目45人の往生伝(菩薩2, 比丘26, 沙弥3, 比丘尼3, 優婆塞4, 優婆夷7)であるが、そのほとんどが、「今昔物語集」の巻十五 本朝 付仏法(僧侶俗人の往生譚)に再録されている。(末尾に一覧)「今昔物語集」十五巻54往生譚のうち大半を占めている。他の出典にしても、この書の増補版である鎮源@首楞厳院[経歴不詳]:「大日本国法華験記」1040-1044年なのだ。

「日本往生極楽記」には序があり、本朝版を作りたかった理由がわかるようになっており、「今昔物語集」編纂者はその姿勢を是としたと見てよかろう。その一部を引いておく。・・・
大唐 弘法寺釋迦才撰
「淨土論」
其中載
往生者廿人
迦才日、
 上引經論二教證往生事。
 實爲良驗。
 但衆生智淺不達聖旨。
 若不記現往生者。
 不得勸進其心。
 誠哉斯言。
 又
 
「瑞應傳」所載。
  
三十餘人
 此中有屠牛販難者。
 逢善知識十念往生。
 予苺見此輩彌固其志。
 今檢國史及諸人別傳等有異相往生者。
 兼亦訪於故老。
 都慮得四十餘人。
 予感歎伏膺聊記操行。


「今昔物語集」編纂者は慶滋保胤がまとめた譚を並べることにより、高僧の編年体ではつかみようがない、生々しい、本朝の往生思想史を提起したかったと考えることもできよう。それは、公的文章スタイルから脱せない「学」から、平易で読み易い「語り」に変換する作業でもあった。追求しているのは宗教学ではなく、往生観念の政治社会学ということ。

あらためて、慶滋保胤の経歴を眺めておこう。・・・

ポイントとしては、具平親王の下の文人サロンの中心的人物。
  東岸西岸之柳、遅速不同。南枝北枝之梅、開落已異。
   春生逐地形序 慶滋保胤 [「和漢朗詠集」上巻春 早春]
ところが、官位的には従五位下。

 《寂心/慶慈保胤/心覚/内記入道
○931年:誕生[賀茂忠行の二男]
○:文章生 (兄保憲と弟保遠は家業[陰陽道]を継ぐ。)
○:大内記兼近江掾 (紀伝道の師は文章博士菅原文時。)
○964年:"勧学会"結成…学生+比叡山僧侶で春秋開催@坂本
○982年:随筆「池亭記」 (初の屋敷@六条坊門南 町尻東)
○986年:出家 (師は源信。止観の師は増賀。比叡山横川に住する。)
 「日本往生極楽記」[再増補版]
○:("横川首楞厳院二十五三昧起請"起草。)
○:(弟子は具平親王と寂照/大江定基。)
○:(藤原道長の戒師。)
○1002年:示寂[如意輪寺@鹿ケ谷]

「今昔物語集」では、"出家の後は、空也聖人[903-972年]の弟子"とされているが、出家時の師弟関係を意味している訳ではない。
大勢の貴族が参加したと伝わる、空也の大般若経供養会@"勧学会"結成前年で結縁を結んだことを示唆しているのだろう。インテリ生活が長いから、市井の聖の道ではなく、源信に師事するよう勧められた可能性もあろう。(小生は源信は学僧だと思う。)
ただ、生活が一変することになったのは、ココではなく、986年と考えるべきだろう。
花山天皇[⇒入覚]、藤原義懐[⇒寂真@叡山飯室]、藤原惟成[⇒寂空@長楽寺]による改革が挫折[寛和の変]し、視野の狭い政治が復活した年である。武家はそれに諾々と従うだけの状況ができあがり、インテリの政治的出番はなくなり、浄土教に流れ込んだと見ることもできよう。

--- 慶滋保胤:「日本往生極楽記」@987年⇒「今昔物語集」巻十五 往生譚 ---
 [_]聖徳太子…兼明親王の要請
 [_]行基菩薩…兼明親王の要請
 [_]傳燈大師
 [_]慈覚大師
 [_5]澄海/隆海律師⇒[巻十五#02]
 [_]増命僧正
 [_]無空律師⇒[巻十四#01]
 [_8]明祐律師⇒[巻十五#03]
 [_9]源心意 濟源⇒[巻十五#04]
 [10]智光・頼光兩僧⇒[巻十五#01]
 [11]成意十禪師⇒[巻十五#05]
 [12]東塔住僧某甲⇒[巻十五#06]
 [13](算)十禪師⇒[巻十五#07]
 [14]尋静十禪師⇒[巻十五#08]
 [15]春素/春岡十禪師⇒[巻十五#09]
 [16]昌延/延昌僧正⇒[巻十五#27]
 [_]弘也/空也沙門
 [18]傳燈阿闍梨(大法師)/千観⇒[巻十五#16]
 [19]僧名請/明請⇒[巻十五#10]
 [20]僧眞頼⇒[巻十五#13]
 [21]僧廣道⇒[巻十五#21]
 [22]僧勝如+教信沙弥⇒[巻十五#26]
 [23]修行僧@箕面滝樹下⇒[巻十五#25]
 [24]僧平弥/平(夲)珍⇒[巻十五#17]
 [25]増祐沙門⇒[巻十五#18]
 [26]僧玄海⇒[巻十五#19]
 [27]眞覺沙門⇒[巻十五#31]
 [28]藥連沙弥⇒[巻十五#20]
 [29]尋祐沙弥⇒[巻十五#32]
 [30]尼某甲(光孝天皇孫)⇒[巻十五#36]
 [31]尼某甲(寛忠大僧都姉)⇒[巻十五#37]
 [32]尼某甲@伊勢国+真頼一妹⇒[巻十五#38]
 [33]階眞人⇒[巻十五#34]
 [34]藤原義孝⇒[巻十五#42]
 [35]源憩⇒[巻十五#33]
 [36]越智駅窮⇒[巻十五#44]
 [37]女佛子伴氏⇒[巻十五#48]
 [38]女弟子小野氏⇒[巻十五#49]
 [39]女弟子藤原氏⇒[巻十五#50]
 [40]女人息長氏@近江坂田⇒[巻十五#53]
 [41]一老婦@伊勢国⇒[巻十五#51]
 [42]一婦女@加賀国⇒[巻十五#52]
鎮源:「大日本国法華験記」⇒巻十五#11, 12, 28, 29, 30, 35, 40, 43, 45, 46

---慶滋保胤:「日本往生極楽記」@987年に続いて成書化 ---
  大江匡房[撰]:「続本朝往生伝」@1101〜4年…42名
  三善為康[撰]:「拾遺往生伝」1111年頃…95名
  〃:「拾遺往生伝」…73名
  蓮禅[撰]:「三外往生記」1139年頃…51名


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