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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.11.21] ■■■
[144] 陽成院の御殿
陽成院についてはすでに取り上げた。[→]

この天皇は、一般的には悪逆非道の行為を続け、女性問題も多々あったため、退位を迫られて、その皇統が廃絶されたと紹介される以上ではない。ただ、百人一首に選ばれた歌は純愛的で、そのようなイメージは全くないが。

退位したからか結構長生き。
ある意味、自由になったから、異端的な姿勢に意味がなくなったということか、為政者との交流や歌合開催など、高級貴族としてのスタンダードな生活様式に落ち着いたようである。
最初は、陽成院御殿に住んでいたが、その後、その西の広大な冷泉院に移って余生を送ったらしい。

そこは、知を求める人達に開放された静かな場所でもあったようで、時代の先端を行く書籍が集められていたようだ。東側を流れる堀川から水を引いた池庭もあり、都会のなかで落ち着ける雰囲気が造られていたのであろう。そこには枯れない地下水が湧くこともあり、都が旱魃に襲われると、御殿は一般開放されており、若き日々の天皇像からは、およそ想像し難い姿勢である。

「今昔物語集」編纂者は、そこらを踏まえ、その冷泉院跡に現れた翁の水の精譚を収載していると思われる。

その場所は発掘が行われており、次第に状況がわかって来つつある。
【冷泉院@大内裏東に隣接200m四方の地(人名と地名が同じで紛らわしい。)
 二条大通の北方
 大炊御門大路の南方
 西洞院大路西の堀川
(川幅4丈)の西方
  堀川沿いの東堀川小路
(2丈)
 東大宮大路の東方
   南西に神泉苑 東北に高陽院 東南に堀川院

編年的にはこんなところ。
  810年代  嵯峨天皇離宮として建造
  823-834年 嵯峨院の御所
  850年迄  皇太后橘嘉智子の御所
  858年迄  文徳天皇の御所(内裏はほとんど使われず。)
  875年   炎上
  884年迄  陽成院の御所(陽成院からの移住)
   :
  949年   炎上
  960年   改名("冷然"⇒"冷泉")
   :
  1055年  移築衰退


肝心の翁の水の精譚だが、特段、陽成院を示唆している訳ではない。
  【本朝世俗部】巻二十七本朝 付霊鬼(変化/怪異譚)
  [巻二十七#_5]冷泉院水精成人形被捕語

 陽成院の御殿は2町。
  二条よりは北、
  西の洞院よりは西、
  大炊の御門よりは南、
  油の小路よりは東。
 院崩御の後は、
  冷泉院小路をば開け、
  北側の町は人家、
  南側は陽成院時代造成の池等が少し残っていた。
  その南にも人が住むようになった。
 頃は夏。
 西の台の縁側で男が寝ていた。
 すると、身長三尺ほどの老人が来て、
 寝ている男の顔を手探る。
 怪しいとは思うものの、怖いので、何もせず。
 狸寝入りし、老人がゆっくり返って行くのを、
 星明かりの下で見ていたが、
 池の汀で、かき消す如く失踪。
 池の掃除も行われていないので、
 萍や菖蒲が繁茂状態で、大変気味が悪く恐ろし気。
 そこで、「池に住む物であろう。」と恐ろしく思っていた。
 その後も、夜な夜なやって来て顔をを手探る。
 その話を聞いた人は、皆、怖気づいた。
 だが、なかには、兵根性を持つ者もおり、
 それなら、その顔を手探る者を捕らえてくれると
 言い出す。その縁側にただ独りで苧縄を用意し、
 終夜待つ態勢をとっていたが
 宵のうちは見えなかったものの
 夜半を過ぎた頃、待ちかねていたのだが
 ついに、顔面に冷たい物が当たったのである。
 心して待った甲斐ありと、
 寝かけたところを気をとり直し
 驚くままに起上って捕へることができた。
 そして、苧縄で縛って、高欄に結い付けた。
 周りの者に告げると、人が集まって来て、
 火を灯したので、見てみれば、
 身長三尺の小さな老人で浅黄色の裃を付けている。
 生気を失って縛り付けられており、目を瞬いていた。
 人々が問いかけるものの、答えもしない。
 しばらくして、少し微笑んで、当たりを見回し、
 か細く侘しい声で
 「盥に水を入れて持って来てくれないか?」と。
 そこれで、大きな盥に水を入れ、前に置いた。
 すると、老人は首を伸ばし、盥に向かい、
 水に映った自分の影を見て、
 「我は、水の精なるぞ。」と言って、
 水に"ずぶり"と落ち込んだ。
 途端に、老人は見えなくなってしまった。
 そうなると、盥の水は多くなり、
 鉉を越えて零れ出し、
 縛った縄は、結んだ形で、水中に残っていた。
 人々はこれを見て驚き奇異に感じた。
 その盥の水は、零さないようにして、すべて池に
 入れた。


他愛もない精霊譚である。
「酉陽雑俎」で見る唐朝の社会では、このような精霊が見つかったら、有無を言わさず、即刻、撲殺だが、本朝ではそうはならない。
冷泉院の池地は、火事除けでもあったし、同じ水源と見られていた井戸は都の命を救ったことを知っていたこともあろうが、そこには陽成院の息のかかった霊がいておかしくないと思っていたからと見ることもできよう。美しかったかつての庭は、手入れするどころの話ではなく荒れ放題で、かつての知を求めた人々が散策していた風情などどこにも感じられないのである。
そんな気分を十分味わえるような話に仕立て上げられていると見ることもできそう。

そうそう、陽成院がどのように受け取られていたかわかる話があるので、ついでに見ておこう。自分がどう見られているかは百も承知のようだし、世間にはつまらぬことばかり多いものヨといったところだろう。
  【本朝世俗部】巻三十一本朝 付雑事(奇異/怪異譚 拾遺)
  [巻三十一#_6] 賀茂祭日一条大路立札見物翁語

 賀茂の祭の日のこと。
 一条大通と、東の洞院通の交差点の辺りに、
 暁の頃から札が立てられていた。
  「ここは翁の見物場所につき、立つべからず。」
 人々は、それを見て、近寄ろうとはしなかった。
 陽成院の見物場所と噂になっており、
 徒歩で来る人は避けたし
 牛車に乗っている人も近くに止める者ことはなかった。
 やがて行列通過の頃合いになると、
 粗末な浅黄色の裃を着た老人が一人出てきて、
 上
(の桟敷席)を見上げたり、(座っている人々を)見下ろしたりし、
 高々と扇を使って、立札の下に立ち
 静かに祭りの行列を見物し、
 祭りの華が通り過ぎると帰っていった。
 人々は、
 陽成院が御覧遊ばされなかったが、どうしたのだろう?、と言い合う。
 そして、あの老人が、勝手に札を立てたに違いあるまいとなった。
 話は広がって、
 陽成院の耳にも入ってきたので。
 召し取り尋問せよとの仰せ。
 捜索すると、西の八条の刀禰だった。
 院の下層役派遣され召し取られて、院司が尋問。
 「何故"院が立てられた札"と書いて脅し、
  得意顔で見物をしたのだ?」
 老人は、
 「確かに札を立てましたが、
  "院が立てられた札"とは書いておりませぬ。
  翁は80才にも達しまして
  今更、見物をしようとの気持ちもありませぬ。
  ところが孫が蔵司の小使いになり、行列参加。
  その姿を一目見たくて我慢ができなくなりましたが、
  混雑のなかでは、踏み倒され死ぬことさえございます。
  そこで安心して見物しようと思って立てたのでございます。」と。
 陽成院は
 「よくぞ思いついた。
  孫の晴れ姿を見たくなるのは道理。
  賢い。」と、感心。
 「早く引き下がれ。」と仰せに。
 老人は得意顔で家に帰って、老妻にこれを語り、
 自分は賢いと思っていたのである。
 世間的には、院が感心したのは面白くなかったようだが、
 孫を見たいと思うのは道理と言っていたという。


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