→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2019.11.22] ■■■ [145] 逢坂山越の寺 ○三条大橋 「粟田口」 ↓東山華頂山・空山科日ノ岡の南麓 ○粟田山裾 ↓ ○山科 ↓ ○追分 山科から先は南の逢坂峠/大関峠越えか、北の小関峠越えを選ぶことになる。前者は北陸道、後者は東海道とも言えるが、前者は三井寺/園城寺への最短コースと言った方がよかろう。 《北》 ○追分 ↓ ○寂光寺…藤尾の磨崖仏(山田堂) ↓ ○藤尾寺/普門寺[873年円珍開基] ↓ ○藤尾神社[840年頃] ↓ ○小関峠 ↓ ○三井寺/園城寺 《南》 ○追分 ↓ ○逢坂峠/大関峠 ↓ ○安養寺[861年円珍開基] ↓ ○関寺/世喜寺…霊牛塔(現:長安寺石造宝塔)@逢坂 残存塔は鎌倉期 5丈弥勒菩薩像 │ 976年大地震で倒壊⇒源信再興(942年開始) ↓ ○札の辻→○三井寺/園城寺 ↓ ○大津 ↓ ○草津 もともと、仏教寺院はヒト・物・情報の流通基盤をインターナショナルに整備する役割も担っていた。強盗・殺人は当たり前の社会風土の変革拠点でもあったといえよう。逢坂山越えは境界を越える行為であるから、この地に寺を設置するのは当然のこと。 もっとも、社会が成熟し、交通基盤も整うとそのような感覚は失せてしまうが。 と言うことで、この地域の寺の話を眺めてみよう。 まず最初は、半ば冗談と思いがちだが、実話の藤尾寺での騒動譚。 【本朝世俗部】巻三十一本朝 付雑事(奇異/怪異譚 拾遺) ●[巻三十一#_1]東山科藤尾寺尼奉遷八幡新宮語 天暦期[947-957年] 粟田山の東、山科の北に、藤尾寺がある。 (普門寺であろう。) この南に別なお堂があり、住職は老尼だった。 財源が豊かだったので、すべて思うように運営。 この尼の信仰は八幡大菩薩だった。 そこで、大菩薩を遷奉し宝殿を造って崇敬していた。 本宮では、八月十五日に放生会法会を行っていたので 同じ体裁で法会を行った。 多くの僧を招請し、楽舞も行った。 財源があるので、立派な法会になり 本宮とほとんど変わらないようになってしまった。 毎年開催して何年か経つと 本宮の方が劣って見えるようになってしまい 舞人・楽人も新しい方に競って参加するように。 本宮では 法会が少し廃れた感じになって来たので、 僧俗の神官等は嘆いていたが 相議の結果、 使を以て尼のもとに派遣し 本宮が昔から行って来た放生会の日とは 別の日に行うようにと指示。 しかし、尼は、 放生会は大菩薩の御誓であり、 八月十五日と定められているので 他の日では行うことはできないとして 無視した。 これを聞いた本宮の僧俗の神官等は、 大いにに嗔り、 新宮に行き、宝殿を破壊し、 御聖体を運び出し本宮に安置することに。 雲の如く集まり、実行とあいなった。 尼が夜昼崇め奉っていた宝殿は廃墟となり 御正体は本宮に入り、 その後、護国寺に安置された。 こうして、この尼の放生会は絶えてしまった。 放生会は中国天台宗の開祖が命を救った行為が起源で、天武天皇の677年の放生詔が日本における原点と見てよさそうだが、放生会といえば勅祭[948年から]の"石清水祭"が有名である。宇佐神宮の放生会は744年に始まったそうで、それを踏襲した石清水八幡宮の法会は863年から。尚、938年8月12日、石清水八幡宮の僧・神人らが山科藤尾寺に乱入との記録があるようだ。祭が大衆イベント化し、大衆が神輿を担ぐ行事も認められるようになっていく訳だ。 次ぎは関寺である。 大衆化が一気に進んでいく姿が描かれている。 ●[巻十二#24]関寺駈牛化迦葉仏語 左衛門の大夫 平朝臣義清の父、中方が越中守であった時のこと。 国で黒い牛一頭を入手。 その後数年間、中方はこの牛に乗り出歩いていたが、 知人の清水の僧に贈った。 さらに、清水の僧は、この牛を大津に住む、周防の掾正則に与えた。 丁度その頃、 関寺に住む聖人が寺を修理していた。 ところが、雑役用の荷車はああったが、牽引する牛を持っていなかった。 そこで、掾正則はこの牛を聖人に与えた。 聖人は大いに喜び、荷車に繋いで、修理用材木を運搬させていた。 そして、運搬が完了した時のこと。 三井寺の明尊大僧正が僧都の頃だが、 関寺参詣の夢を見たところ、一頭の黒い牛が登場。 お堂の前に繋がれているので 僧都が牛に由縁を尋ねると、 「迦葉仏である。 関寺の仏法を助けるために牛となって参った。」 と答えが返って来たところで 目が覚めた。 明尊僧都は不思議なので、翌朝、弟子を関寺に行かせ、 寺の材木を運搬する黒い牛がいないか訊かせに。 報告にでは、 角が少し平べったい黒い大きな牛が、 関寺の聖人の僧房の側に繋がれていましたので尋ねると 聖人は、この寺の材木を引かせるために飼っているとお答えに、と。 明尊僧都はこれを聞いて驚き尊く思い、 三井寺から大勢の高僧を引き連れ、関寺に徒歩で参詣。 ところが牛はいない。 聖人に何処にいるか尋ねると、 草を与えるために山へ連れて行っていると。 そこで、童に取りに行かせたのだが、牛はお堂の裏に下って来ていた。 明尊僧都は牛をつかまえて連れてくるように言うができない。 しかたがないので、牛の自由にして、ただただ敬い尊んで、拝むことに。 そのうち、牛は、 お堂を右回りに三度回りり、仏の御前に向かい庭に坐った。 これを見た一同は不思議な事なのでさらに尊く思ったのである。 高僧達は、皆涙を流した。 こうして、帰っていったのだが、 この反しが世間に広まったのである。 そこで、京中の人々が参詣するようになった。 入道大相国、公卿、殿上人も皆参詣。 例外は、右大 小野宮実資臣だけ。 閑院の太政大臣公季は車でお参りに来た時、 下人で大混雑していたので、降りて歩いて参詣しようとも思ったが、 軽率な事なので、牛屋のすぐ近くまで車で近付いた。 すると、牛は、寺の内に車に乗ったままで入ったので、 罪深いと思ったせいか、 突然、鼻輪を引き切って山の方に逃げて行った。 太政大臣はこれを見て、車から降り、 無礼と見なされてしまった、と悔い悲しみ、涙まで。 すると、牛は山より下って来て、牛屋の内に。 太政大臣は草を取り食べさせるが、 欲しそうではなく、病気で伏せているかのような食べ方。 太政大臣は衣の袖を顔に押し当て泣かれた。 それを見て、皆、尊いことと涙を流したのである。 鷹司殿、関白殿の北の方をはじめ、女房も皆参詣。 4〜5日間で、上中下の大勢の人々が揃って参詣。 ところが、関寺の聖人の夢で 「この寺での勤めを終わった。 明後日の夕方に返る。」とのお告げ。 聖人は、夢から覚めて泣き悲しみ、 三井寺の明尊僧都のもとに参り、この夢の内容をを伝えた。 明尊僧都は、 「寺内でも同じ夢を見たと語る人がいる。 有難いこと。」と言い、 涙を流して尊んだ。 これを多くの人が耳にしたので、参詣人で溢れかえってしまった。 その当日、 比叡山や三井寺の人が集まってきて、 阿弥陀経を読む声が山を轟かせた。 沙羅双樹の釈迦入滅の情景が現れたようなもので、 悲しいこと限りなし。 夕暮れになったが牛は平然としている。 そこで集まった者の中から、 「牛は死なないよ。」と嘲る声も。 暮れてきて、伏せていた牛は立ち上がって走り出し、 堂に来てその周りを回った。 二度目に突然苦しみ出し、 伏せで又起き上がりを2〜3度。 三度回った後に、牛屋に返り着き、頭を北にして横たわった。 そして、四足を伸ばし、眠るように死んだのである。 集まっていた多くの上中下の僧俗男女は 皆、声をあげて泣き合ったのである。 阿弥陀経読誦と、念仏を唱える声がいつまでも続いた。 参詣人が皆帰ってしまい、 遺骸は牛屋から少し高い所に移し土葬。 卒塔婆を立て、周りに柵を廻らした。 夏なので、土葬でも少しは臭い筈だが、全く臭わなかった。 さらに、毎七日、お経をあげ供養。 四十九日、さらには翌年の命日まで、 多くの人がそれぞれ仏事を行ったという。 この関寺だが、 御本尊 弥勒菩薩像朽ちてしまっており、仏堂は壊滅。 礎石から関寺の跡と呼ぶ人もいるが、 全く知らぬ人もいるという状態でになってしまった。 横川の源信僧都は、再建したいと思っていた。 尊い仏が跡形もないのは本当に悲しいというのである。 逢坂の関の向こう側の寺だから、 そこを行き交う諸国の人で拝まない人などいなかったのに。 仏に向かい少しばかり頭を下げたることで、 仏になる縁が生まれるのだから、 一心に拝めば、来たるべき弥勒の世に生まれることもできる。 釈迦仏の御言葉でもあるし 関寺再建は極めて大切と考えて 横川の僧と相談し、浄財を集め仏像を造ることにした。 しかし、彫りあがった時には、源信僧都入滅後だった。 遺言でもあるということで、仏師好常に頼んで 造り上がったのである。 遺言通り、お堂には御顔が見える上階があり、 通りかかる人が拝めるようになっている。 建築は進んでいったものの、 材木が足りなくなり、仏像用の金箔も無くなってしまった。 すると、牛仏拝礼の参詣の人々が 皆、品物を持参し奉納するようになった。 これにより、当初の計画通り、お堂や大門を完成させることができた。 余剰まで生まれたので、僧房も建造。 それでも、尚、沢山残ったので、供養や大々的な法会を行った。 それからは、壊れて修理が必要になると、喜捨を募るようになった。 尚、仏教では28過去佛があり、迦葉仏Kassapa⇒釈迦牟尼仏Gautama⇒弥勒菩薩となっている。[→成道樹] 三度回りも天竺における仏教儀礼の様式そのもの。 (C) 2019 RandDManagement.com →HOME |