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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.12.6] ■■■
[159] 世尊寺の月
「今昔物語集」の往生譚は「日本往生極楽記」の再録が過半を占めているが[→]、数が多いし、似た様な話に映るので読むのが厄介である。

そのうち在家優婆塞の話(#33〜36)を眺めておこう。(「今昔物語集」ではこの4譚はまとまったフループではなく、出家者と在俗者に分けられている。)
"世尊寺の月"で知られる美男薄命の藤原義孝も含まれている。
  【本朝仏法部】巻十五本朝 付仏法(僧侶俗人の往生譚)
  [巻十五#33]源憩依病出家往生語
  [巻十五#34]高階良臣依病出家往生語
  ↑出家
  ↓在俗
  [巻十五#42]義孝少将往生語
  [巻十五#44]伊予国越智益躬往生語

僧の兄に看取られて逝く、臨終時の意識混濁シーンが秀逸。実話であろう。
【源憩】
《系譜》
○融─○昇[848-918年 正三位大納言]─○適[内蔵頭]─○憩, 趁/安法
 内匠頭の適の第七子。
 幼時より、心は仏法に。
 因果を知り、ことさら慈悲深い。
 文書を学び読み、心に智。
 20年余りして、病身に。
 20日間ほど、悩み煩ひ、
 遂に厭世の心境に。
 そこで、髻を切り出家。
 其の後、ただただ後世を恐れ、
 阿弥陀念仏を唱へ、極楽往生を願った。
 兄は川原院に住す僧安法。
 入道後、安法を呼んで言った。
 「今、西方から微妙の音楽が聞こえてきた。
  君、もこの音楽が聞こえるか?」と。
 安法は
 「聞こえない。」と。
 すると入道は言った。
 「それに、
  一羽の孔雀鳥が此処にやって来た。
 我が前で、羽搏き舞ひ遊んでいる。
  これも、見えるか?」と。
 安法は
 「見えない。」と。
 そうこうするうち、
 入道は西に向いて端坐合掌し入滅。
 安法、これを見て、
 涙を流して泣き、悲しくも、
 貴ったのである。


文人の最期は、立派な極楽往生で、僧より美しい臨終を実現した印象を与える描き方。
仏教サロンの人達にとっては一番嬉しい話かも知れない。
【高階良臣】
《系譜》
○天武天皇─○高市皇子─○長屋王─○桑田王─○磯部王─○石見王─○高階峯緒[従四位上神祇伯]─○茂範─○師尚[864-916年 従四位上右中将]─○良臣
 円融天皇代[969-984年]のこと。
 宮内卿高階良臣は非常に才長けていて、
 文の道は達人の域。
 若く盛んな時は、公務で思うような官爵を得ていた。
 しかし、老齢に入ると、
 齢漸く傾て後は、仏法を深く信じ、
 現世の名聞利養を棄ててしまい、
 後世の極楽往生を心懸け、
 昼夜寤寐に法花経読誦・
 阿弥陀念仏を唱え続けた。
 そうこうするうち、
 980年正月から病身になり、
 悩み煩うことになってしまったが、
 それを怠るような事は無かった。
 だが、その病が病る事も無く、
 7月になってしまい、
 「明後日に死ぬだろう。」といったところだったが、
 小康状態になったのである。
 家の内の妻子眷属は際限なく喜び合った。
 そんな状況で、
 高階良臣は僧に髻を切って欲しいと。
 そして、受戒し僧に成ったのである。
 その3日後、
 病がたようになり
 大変に気分もよくなったので、
 妻子眷属に向かい諸〃の事をすべて言い残した。
 そして、7月5日に逝去。
 臨終に際しては、
 家の内に、
 ことさら艶やかで馥ばしい香りが満ちてきて、
 空中から微妙が音楽が聞えてきた。
 それに、猛暑の頃だったから、
 遺体が腐乱してはなはだしく臭う筈だが、
 数日立っても腐乱せず、臭気は無かった。


歌があるだけに、しっとりとした往生譚に仕上がっている。愛憎の世界で、月見をしていた頃が懐かしいですな〜、と極楽世界気分を楽しんでいるというところが素晴らしい出来。
【藤原義孝[954-974年 藤原伊尹三男]
《系譜》
○藤原師輔─○伊尹[長男 924-972年 右大臣]─○義孝
               <書道 世尊寺家>○行成[三蹟]
《小倉百人一首五十番》…う〜む。往生譚とは今一歩合わない気もするが。
  君がため 惜しからざりし 命さえ
   長くもがなと 思ひけるかな 
[「後拾遺和歌集」恋二#669]
 一条の摂政殿の御子、左近少将義孝の兄は右近少将挙賢[953-974年]
 義孝少将は幼時より道心有り。
 仏法を深く信じ、悪業をせず、魚鳥を食べなかった。
 ある時、殿上人数人が集まり、呼ばれたので
 少将も行ったところるに、物食い酒飲みの遊行だった。
 供されたのが、鮒の子の鱠だったので
 義孝少将、見た途端に食べずに言った。
 「母の肉を村に見立て、そこに子を散らした物ではないか。」
 そして、目に涙を浮かべ、立ち去ったのである。
 人々それを見て、折角の膾の味も不味くなってしまった。
 この様に、魚鳥を食べる事をしなかったのである。
 ましてや、自ら殺生する事など永久的にありえないのである。
 ただただ、公事の隙間をみては、常に法華経を読誦し、
 阿弥陀念仏を唱えてばかり。
 そうこうするうち、974年秋に入り、
 世の中で疱瘡病(天然痘)が勃発。極めて騒がしくなってきた。
 有明の月が輝いている夜明け近くの頃だが、
 弘徽殿の細殿に2〜3人の女房が雑談していたところ
 義孝少将が素敵な襴装束で、殿上の方より細殿にいらっしゃって、
 女房と物語などを語らう様は、
 現世の意味など有りそうでも、すべて儚きこととおっしゃったりし、
 いかにも、
 「道心有るお方だ。」と思えるのであった。
 夜がさらに更けていき
 少将は北様へ行った。お供は小舎人童一人だけ。
 北の陣に行く間にも、
 方便品比丘偈を極めて貴く誦しておられたのである。
 細殿の女房はこれを聞いて、
 「この君は道心深いお方ですこと。
  これから何処へ向かわれるのでしょう。」と思い、
 侍を呼び、
 「あの少将の行き先を調べて返ってくるように。」と言い、派遣。
 侍は少将の後に付いていった。
 土御門から出て、大宮大路を昇り、
 世尊寺[@一条北 大宮西 1001年藤原行成建立]に出て、
 東門より中に入った。
 東の台の前に紅梅の木あり、その下に立って、西に向かい、
 「南無西方極楽阿弥陀仏。
  命終決定往生極楽」と礼拝。
 それから、板敷に上がった。
 侍はそれを見て、小舎人童に近寄り質問。
 「礼では、このように礼拝されるのか。」と。
 童は、
 「人がお見えにならない時は、
  何時も、必ずこのように礼拝なさるのです。」と答えたのである。
 侍、女房のもとに返って、これを語った。
 女房達は、そう聞いて、大いに哀れがった。
 そうこうするうち、次の日になり、
 少将も疱瘡罹患。
 参内せずと言っているうち、
 兄の挙賢少将も同じように罹患し、寝殿の西東に臥った。
 兄弟共に煩ったのである
 母上はその中に立って、介護されていた。
 兄の少将は、たった3日で重体になり入滅。
 枕を替え、亡くなった場合の例に倣い葬した。
 そこで、母は、弟の少将の煩ふ方に渡って歎き悲しんでいた。
 この病は極めて重篤ということなので
 少将は、声をあげて法華経方便品読誦。
 半ばほど誦したところで入滅。
 その間、艶して馥ばしき香りがこの辺りに満ちたのである。
 そんなことで、人々の話題に。
 「一度に二人の御子を失ってしまった母親のお心は
  いくばくのものだろうか?
  父の摂政殿が生きていらしたら、
  どんなに思われ、歎かれたことだろうか?」と。
 その3日後、
 母の御夢に、兄の少将が現れ、
 中門の方に立って、大いに泣いていた。
 母、台の角からその姿を見て
 「何故入ってこないで、泣いているのか?」と問うと、
 少将、答えるに、
 「参上しようとは思うのですが、それができないのです。
  我、閻魔王の御前で、罪の勘案に諮られたのですが
  "汝の命を取る時期はまだまだ遠い先のこと。
  速に放免すべし。"との御沙汰で
  放免されたので、返って来たのですが
  とっくに枕を替えられており、
  魂が入る方向が違っていて、生き返ることができないのです。
  従って、さ迷っているしかないのです。
  心疎き状態に陥っております。」と。
 恨んでいる気分で泣いていたるのだった。
 そこで、夢から覚め、
 母、それを思うと、いかばかりだったろう、と。
 又、この時、
 懇意だった右近中将藤原高遠の夢にも
 義孝少将が現れた。
 高遠中将はそれを大変に喜んで、
 「君は何処に行ったのか?」と質問。
 義孝少将は答えた。
 「昔は契りき、蓬莱の宮の裏の月に
     
…生前は、蓬莱宮の如き宮中で月見で愉しみ
  今は遊ぶ、極楽界の中の風に」
     
…後世は、極楽浄土の風に吹かれて遊んでおります。
 すると、掻き消す様にいなくなってしまい、夢から覚めた。
 そこで、高遠中将はこの文を書き付けておいたのである。
 この言葉をを聞かされた人は
 「道心が有る人の後世は、
 それ相応のふさわしい姿になるもの。」と言い、
 讃め、貴んだのである。
 少将、生前は、天賦の才で、素晴らしい文を作ったものだが、
 夢の内で作った文も、又、微妙きモノに仕上がっている。
 「夢で"極楽に遊ぶ"と告げているし
  臨終時には、往生の相を出現させており、
  間違い無く往生した人だ。」と言われている。


早逝だった父に加え、天然痘で兄弟揃ってアッという間に逝去。残された母親悲しの話のようでもある。
臨終に当たって、法華経読誦が中途で終わってしまい、母親はえらく心配したということのようだ。イエイエ、ご心配に及びませんよ、極楽往生されましたからと、仲間や僧が慰めたという話でもある。

次ぎは、僧形にならなくても、極楽往生する例を示すための譚。
【越智益躬】
河野家家譜「予章記」によれば、推古天皇の時代、"百済の軍勢が鉄人を押し立てて日本に攻めてきた時、鉄人の足の裏を射抜いてこれを撃退した"武将、小千益躬のこと。もちろん、この時代の来寇記録は史書には見当たらない。
 越智益躬は伊予越智@今治の大領だった。
 若い頃から老いても、公事は、怠らず勤めあげた。
 又、道心も深く、仏法を信じ、因果を理解していた。
 昼は、法花経一部を必ず読誦。
 夜は、阿弥陀念仏を唱えた。
 これが何時もの所作となっていた。
 剃頭してはいなかったが、
 十重禁戒を受けており、法名を定真と定めていた。
 このようにお勤め修行を長年行い、老いてのである。
 命尽きる時に臨んでは、
 身体には病は無く、心は乱れずして、
 西に向かって端坐し、
 手に定印を結び、口に念仏を唱へて入滅。
 その時には、
 空には微妙な音楽が流れ、
 近辺の里の村人は皆それを見たという。
 又、、艶ず馥ばしき香りが、家の内に匂ひ満ちたという。
 見聞きした人、皆、涙を流して貴ったのである。


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