→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2019.12.18] ■■■ [171] 始皇帝 当然ながら、「今昔物語集」の"震旦 国史"のイの一番で記載されている。 【震旦部】巻十震旦 付国史(奇異譚[史書・小説]) ●[巻十#_1]秦始皇在咸陽宮政世語 震旦の秦の世に、始皇と云ふ国王在けり。 もちろん、それに先立って、震旦への仏教伝来の冒頭でも登場する。帝国発祥と仏教渡来は同時代であったことを、確認することが、歴史観の上で最重要ということになる。 【震旦部】巻六震旦 付仏法(仏教渡来〜流布) ●[巻六#_1]震旦秦始皇時天竺僧渡語 震旦の秦の始皇の時に、天竺より僧渡れり。 ところが、始皇帝は余りにも有名であるため、この"帝"を欠く"始皇"との名称には違和感を抱かざるを得ない。これは現代人だからという訳ではなく、当時のインテリでも同じだったろう。 これを、"帝"をカットして短くしただけか、と軽く通り過ぎる訳にはいかない。 すでに取り上げた王昭君の譚[→]で、皇帝を天皇と呼んでいるからだ。その前後併せて5譚や後半部でもその用語が極く普通に用いられており、恣意的なのは明らか。(但し、玄宗、等では皇帝称号が用いられてはいる。流石に、そこまでということか。)震旦では、道教では天皇という用語はあるものの、皇帝を天皇と呼ぶことなどありえない訳で。 このことは、「今昔物語集」編纂書は、"天帝の使命を受けた国王=天子"との理屈を認めない姿勢を示すために、"皇帝"という当たり前に使われている用語を嫌った、と考えるしかあるまい。おそらく、社会的に統治の必然性があるなら、天皇と呼ぶべきと主張しているのだろう。 従って、【天竺部】でも天皇称号が用いられることになる。 そうなると、"天皇"称号は、「古事記」の"神々"からの一貫した系譜を示す本朝用語では無いということになる。仏法の下での王道を行く統治者を天皇と呼ぶとの定義なのだろうか。 と言っても、本朝の記載で、統治者の呼び名である「国王」称号は全く登場してこない。日本の天皇を「国王」と呼んではならぬ、ということでもある。もちろん、震旦に渡ってから説明する場合は天皇という用語は無いから、天皇を「国王」と呼ぶしかないが。 こうして考えてみると、始皇帝譚は、極めて特殊な話に仕上げてある可能性が高かろう。まともに眺めるには、予備知識がかなり必要かも知れぬ。 先ず、「史記」だが、始皇帝の父が誰か断定できてない。それどころか、名前そのものも、確定は難しいと言ってよいだろう。 コレ、古いことだからわからないという話ではない。 何を示唆しているかといえば、人質として育ったから、それはある意味当然、という思想で記載してあると見た方がよい。 (ここらは、注意が必要。震旦は、宗族信仰の地。血族が貶められたら子々孫々血をもって贖えという思想が根底にあり、敵は原則全員抹殺するしかない。天子の命に反すれば、その血族は全員が敵扱いになる。つまり、奴隷や人質とは、本来的には生贄要員でしかない。しかし、利用価値があれば変更されることになる。ここらの合理的運営に科挙制度や儒教道徳論が生まれたと言えないこともない。) 当然ながら、始皇帝は、血族の力を活用して覇権を握るような安直な方針を採用する訳にはいかず、ただただ軍事独裁者として君臨する以外の統治手段はない。 当然ながら、始皇帝の出自を云々する人が出る訳もなく、そのような話とは、後世の勢力のご都合で決められたと見てよいだろう。従って、どこまで当たっているかはなんとも言い難しである。 ○秦始皇帝は、智に長けて賢く、心は武く、政治力があるので、 国中を従わせていた。 その意思に逆らう者は斬首、手足切断。 人は、皆、風に靡く草の如き。 本朝でも、人は青草である。 しかし、本朝は生贄型風土とは無縁だったようで、「古事記」でも、独裁的統治が行われず、常に協議が付いて回る状況が描かれている。 震旦とは、かなりの違いがあることを、最初に伝えたかったのだと思われる。 ただ、草とは土着型という意味であり、非土着型の風土との併存はかなり難しい。農業圏と遊牧圏は全く異なる統治システムにならざるを得ず、人工障壁で分離するしかない。万里の長城の出現である。 しかし、インターナショナルな交流を消滅させることは無理で、その壁を突き抜ける動きが消されることはない。 ○始めて、咸陽宮と呼ばれる宮を建造し都城とした。 その宮の東側に函谷関があった。 櫃の迫の如しということでの命名である。 王城の北側には、胡国との境とすべく高い山を築いた。 胡国人来襲の道を防ぐためのものであるが 震旦から見れば、常にある山なので、登山で遊ぶ場所でもある。 その山の頂からは、胡国が一望。視界を遮るものは無かった。 胡国側は高く切り立っており、塗り壁の様で、人が登れない出来。 その山の東西の幅は1,000里。 その高きこと、雲と同等と言われ、 余りに高く、鴈が飛超えて渡れないので、 山の中に通れる穴を開けており、 鴈はそこを一気に飛んで抜けることができた。 独裁者始皇帝の方針を諌める仏教など言語道断だし、血族第一主義の儒教などさらに邪魔な存在以外の何モノでもない。血族のために、天命ということで、皇帝打倒に立ち上がる可能性があるのだから。 始皇帝にとってヒトの出自などどうでもよく、すべての判断基準は自分に従うか否か。焚書坑儒は当然の流れである。 ○儒教の、代々の書籍を皆取り集め焼却。 残すのは、始皇帝が作ったものだけでよいのである。 しかし、孔子の弟子は、止事無き書籍を選び、 窃に取り隠し、壁の中に塗り籠めて留め置いた。 唐代の引用譚集「酉陽雑俎」の書名は、穴に隠して後世に「知」を伝えたいという意味。焚書は、始皇帝から始まり定着していると見たからである。時の為政者にとっては不都合な書は消される。後世に残されるのは、為政者認可の史書と、人々に気にいられた小説のみというのが、その著者の見方。簡単に言えば、儒教の震旦では、そのうち仏教書は消される運命かも、と見ていたということ。 「今昔物語集」編纂者も似た考え方をしていた可能性があろう。 ここからが面白い。 通常の不老不死薬入手のための蓬莱山物語とは全く違うからだ。 もしかすると、精鋭陸兵による武力支配を脅かす、強大な土着信仰の水兵勢力が勃興してきたが、その平定に失敗したということかも。 各地の土着信仰をまとめることに失敗し、始皇帝圏からの独立化を図る動きが公然化してしまったようにも読める。 ○始皇帝は左驂馬を寵愛していた。朝暮に愛でて飼っていた。 その体はまるで龍のよう。 ある時、馬を連れ海に行き洗ふ夢を見た。 大海から突然高大魚が出現し食い付かれ、海に曳き入れられてしまい そこで夢から覚めた。 怪しく、瞋恚に燃え、宣旨を下す。 「大海に高大魚という大魚が居る。 この魚を射殺した人には、 お望みの賞を下賜する。」 これを聞いて、国中の人が、大海に船で遥か沖に出た。 ほのかには、その大魚を見ることができたが、射殺はできなかった。 そこで、皆、返って、帝王に申し上げた。 「大海に臨んで、高大魚を見ることはできたが、 射る事はできなかった。 これは竜王妨害のせいである。」と。 ○始皇帝はこれを聞いて、自分の身を案じて 方士に仰せになった。 「汝、速に蓬莱の山に行き、 不死薬を取って来るように。 蓬莱は未だ発見されていないが、 昔から今に至るまで、 世に言い伝えがあるのだから、 早く行くように。」と。 方士はこの宣旨を承り、早速に蓬莱行。 数ヶ月経ち、巡っていた方士が戻り、上申。 「蓬莱に行くのは容易なことではございません。 しかしながら、大海には高大魚と言う大魚はおります。 これを恐れ、蓬莱に着くことができないのでございます。」と。 始皇帝はこれを聞いて、宣旨を下した。 「かの高大魚、我が側に付いて、悪を致し不届き。 このことにより、かの魚を射殺すべく命ずる。」 宣旨は下ったものの、行って射る人は出てこなかった。 そこで、始皇帝は自ら、大海に出かけて射殺することに。 そして、船で出て、発見したので射ると、魚は箭に当たり死んでしまった。 始皇帝は喜んで還ったものの、そこで天の責めを蒙り、 重い病気を患うことに。 結局、出先で死んでしまうが、命じられた通りに、御子二世と大臣趙高は死亡を隠蔽して王城に戻る。遺体を方魚と一緒に運ぶことで、その腐臭をわからなくしたという。 そして、二世が即位するが、力足らずで従うものが少なく、臣に馬鹿にされる。(臣は、帝に逆らって、鹿を馬と呼ぶのである。)結局のところ、二世は臣の軍に討たれてしまう。次ぎに、始皇帝の孫 子嬰が即位することになるものの、臣に殺られる前に、趙高を殺すことに。こうなると、たいした人材もいなくなり、そのうち、項羽に攻め入られて子嬰は殺される。王城は3ヶ月に渡ってすべて焼き払われ、秦は滅亡したのである。 (C) 2019 RandDManagement.com →HOME |