→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2019.12.23] ■■■ [176] 薬師寺ご本尊 哲学的雰囲気は感じられず、それこそが、薬師如来信仰の一大特徴と言ってよさそう。 そんなこともあって、薬師仏には、現世に於ける除病安楽祈願仏イメージがほぼ定着している。 経典の名称でもはっきりしているように、薬師如来の世界とは東方浄瑠璃浄土。西方極楽浄土と対の概念と思いがちだが、現世と来世の世界と解釈することもできる訳で、根本的に異なる思想なのでは。(顕教時代の世界観では、四方に、薬師・阿弥陀・釈迦・弥勒の佛国土ありということのようだ。) そのような如来であるが故なのか、両界曼荼羅には薬師如来は描かれていない。 その除病安楽祈願だが、摂関期においては、病は物怪によって引き起こされると考えられており、薬師仏祈願ではなく、密教の呪術による平癒が一般化していたようだ。しかし、薬師祈願が無くなった訳ではないから、特定の問題解決ではなく、息災を防ぐための一般的なご祈祷に変わっていったのであろう。 藤原道長の信仰を見ると、滅罪修善のための仏でもあったようだし、極楽浄土への遣送仏とも考えていたようで、役割は時代によってかなり違っている可能性がありそう。 古くはどうだったのが知るには、薬師寺の動きを見るのがよさそうだ。 ということで、関係する譚を眺めてみよう。 薬師寺の薬師仏信仰は現世御利益祈願だったのは間違いなさそう。 【本朝仏法部】巻十一本朝 付仏法(仏教渡来〜流布史) ●[巻十一#17]天智天皇造薬師寺語 天武天皇[在位:673-686年]から皇位継承した女帝持統天皇[在位:690-687年]は 高市郡に寺を建立し、薬師如来像を安置された。 そして、奈良遷都後に、女帝元明天皇[在位:707-715年]が、 西京六条二坊の、現在の薬師寺の場所に移築されたのである。 持統天皇の御師である僧が入定し、竜宮に行き、 竜宮建築様式を見て天皇に上申し対応することになり、 現在に至る迄、仏法が栄えている訳だ。 この寺の薬師仏にご祈祷すると、 御利益を頂けないことがないとされる。 従って、心から崇め奉るべき仏ということになる。 ただ、寺内には、高僧でも入ることは出来ない。 入れるのは、堂童子という在俗の者のみで、 供え物や灯明を奉る役割である。 尊いことである。 【本朝仏法部】巻十二本朝 付仏法(斎会の縁起/功徳 仏像・仏典の功徳) ●[巻十二#_5]於薬師寺行最勝会語 天智天皇[在位:668-672年]が薬師寺を建立されて以来、 この寺の仏法は栄えている。 淳和天皇代[在位:823-833年]、 聡明で、信仰心があり、仏典・典籍に熟達していた 中納言従三位兼中務卿 直世王が [天武天皇─長皇子─長田王─清原王─直世王] 830年、天皇に奏上。 「薬師寺で、毎年七日間だけ、 天下繁栄と、帝王万歳を祈るために最勝王経を講じる法会を挙行し、 永久行事とされたら如何でしょう。」と。 そこで、 「申すこともっともにつき、速やかに申す通りに行なうように。 代々の帝王の御子孫達を施主にするように。」との仰せ。 こうして、毎年3月7日、この法会が開かれることになり、 最勝王経読誦が後世までのお勤めとなった。 法会の講師には維摩会・御斉会の講師が起用され、 聴衆には、諸寺諸宗の学僧を選んで列席させることに。 講経や論議は維摩会と同様に行われた。 朝廷から勅使が派遣され、 講師・聴衆へは並々ならぬお布施。 僧への供え物は寺に委託。 「この寺の施主は、代々の天皇のご子孫たるべし。」 との宣旨があるため、 源氏の姓を賜った御子の子孫が施主とされ、 高位の源氏の者が用いられことに。 法会の勅使も源氏の者である。 そのようなことで、 日本の大きな法会は、 維摩会、御斉会、最勝会の三会となった。 一人でこの三会の講師を勤めると、已講という称号が与えられ、 褒賞として、僧綱位授与。 最勝会は、優れた法会と見なされるようになった。 万灯会は、現在復活しているようで、玄奘三蔵会として行われているようだが、本来は玄奘[訳]:「薬師瑠璃光如来本願功徳経/薬師経」の法会である。 ●[巻十二#_8]於薬師寺行万灯会語 薬師寺の万灯会は、寺僧 恵達[854-881年]が始めた。 一日の法会であり、 寺僧達は法衣を調えて、皆、法会の色衆を勤める。 昼は本願薬師経を講じ、 音楽が演奏され、歌舞が休みなく行われる。 夜は万灯を掲げ様々に飾られる。 寺僧が執り行うが、施主の寄進で運営される。 開催日は、3月23日。 今なお絶えることなく続いている。 後に、恵達は僧都になったが、 在世中はこの法会を主宰していたので 臨終に際して、寺僧達に後を託したのである。 恵達僧都は寺の西の山に葬られ、 万灯会を行う夜、その墓から必ず光が射すと謂われている。 南都の寺は、土着神との関係では、かならずしもしっくりいっていなかったようだが[→南都の寺]、ここ、薬師寺では上手く運んでいたようである。神仏習合実現の先駆仏と言えそう。 お寺の鎮守役として、剃髪袈裟着用、錫杖を持ち蓮華座の僧形"休"ご神体像八幡神@9世紀末が安置されたのである。 ●[巻十二#20]薬師寺食堂焼不焼金堂語 ○(973年2月27日)夜、薬師寺の食堂から出火。 火は南に向かった。 講堂、金堂は南にあるので焼失必至。 寺僧達は、悲しんで泣き喚くだけで、どうにもならない。 天智天皇建立以来のことで、 それこそ、400年も経ったと思うほど、 このような火事は発生しなかったのだが。 火は食堂を焼き尽くし ようやく白煙になり、夜も明けた。 見ると、焼け跡から、大きな黒い煙が三筋、高く立ち昇っていた。 これを怪しんだ人々が集まってきた。 見ると、金堂と二つの塔に数知れぬほどの鳩が集まり 飛び廻っていたのである。 そのために、火の気が近寄らず、 金堂・講堂が焼けなかった。 不思議中の不思議な事だった。 この寺の薬師仏は、もとより霊験あらたかだが、 火事でもお示しになったということで 人々は皆、尊び感じ入った。 それに、この寺には、 南大門前に、昔から、八幡大菩薩を勧請し奉っていた。 寺の仏法守護の鎮守様である。 従って、この八幡様が焼失させなかったのである。 八幡様の使者である鳩が沢山集まり、 飛び廻って火を寄せ付けなかった訳だ。 その後三年経ち、元の様に 食堂、四面回廊、大門、中門、鐘楼、等が再建された。 ○その後、(989年8月13日のこと。) 突然尋常ならざる激しい風が吹き荒れ、 たちまちのうちに、金堂の上の階層は吹き飛ばされ、 空に舞い上がり、 講堂の前庭に落ちてきた。 風の強さからして、材木や瓦が無傷とは思えなかったが、 瓦一枚も壊れていないし、材木も一本も折れていなかった。 そのお蔭で、そのまま金堂の上に上げて、元通りにできた。 これまた不思議。 ○他の薬師仏霊験。 南大門の天井格子用材木として、 吉野になる寺領の山で300本以上作らせ、 筏に組んで川を流して陸揚しようとすると、 国司の藤原義忠朝臣が、それを内裏造営用材に指定。 薬師寺寺領の山で寺の修理用材として伐採したものだから、 返すように言っても、国司は聞く耳持たず陸揚げ。 別当 観恩は国司に会い丁重に頼んだものの聞き入れず。 そこで、寺僧達はは、南大門の前の八幡様の神前で、 急遽、百日の仁王講を始め、このことを祈請。 その講が70〜80日行った頃、 国司は当該材を、 東大門前に流れている西の堀河から引き揚げて 300本ほとを総て棲みあげた。 そこから泉河/木津川の港に運んで、さらに京に運ぼうとの算段。 どころが、その後、 国司は金峰山に参詣からの帰途、吉野川で転落死。 寺僧達はこれを聞き大喜び。 材は、東大門の前に積み置いてあり、運んでもらったに等しいから。 喜んで、寺の近くの人夫を雇って、寺内に引き入れたのである。 実に不思議なことだが、 寺僧達は、仁王講の霊験は必ずあると考えていたから、 積み置いた材木に鳩が来てとまっていたのを見ていたから 八幡様が国司を罰した、と見なした。 ○金堂の内陣に人が入ることがなかった。 ただ、お堂の管理役の俗人3名は、心身を清め、 旬日を替え、10日間だけ入った。 一生不犯清浄の僧といえども入ることはない。 清浄の行を積んだ僧が、昔、 「私は三業の罪を犯したことはない。 入ってはならない理由はない。」と考えて 入ろうとすると、戸が閉まってしまって戻ったという。 薬師仏像には、稀有な霊験話がある。 (C) 2019 RandDManagement.com →HOME |