→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2019.12.24] ■■■ [177] 伝教大師の薬師仏像 伝教大師最澄は、近江国分寺に出家し、780年得度し785年戒壇院で受戒後、比叡山に入山し、788年に一乗止観院[⇒根本中堂}を創建して本尊として薬師如来を刻んだとされる。 唐から帰朝後、誓約により、筑前夜須白山の"霊木"で薬師造像。その7体は失なわれてしまったが、806年に発見されて安置されることに。・・・医王山南淋寺/南林寺@朝倉宮野の由来譚である。もちろん、洪水多発地域である。 しかし、「今昔物語集」でハイライトが当たるのは宇佐八幡の方。 【本朝仏法部】巻十一本朝 付仏法(仏教渡来〜流布史) ●[巻十一#10]伝教大師亙唐伝天台宗帰来語 [→平安期の寺] 伝教大師は渡唐を前にして、 先ずは宇佐の宮に詣で、 旅の平安を祈願。 お蔭で唐で天台法文を習ひ、伝へることができた。 唐からの帰朝に際しても 先ずは宇佐の宮に詣で、 御前に礼拝恭敬し、 法花経を講じる。 その上で、請願を行う。 比叡山を建立し 多くの僧徒を居住させ 唯一無二の一乗宗を立て 有情非情皆成仏の旨を悟らしめ 薬師仏を造奉し、 一切衆生の病を愈しめむと思ふ この願は、大菩薩の御護に依て遂ぐべき。 これに続いて ●[巻十一#26]伝教大師始建比叡山語 [→平安期の寺] 彼の宇佐の給へりし小袖の脇の綻びたるに、 薬師仏の御削り鱗付て、 于今根本の御経蔵に有り。 各地のお寺に数多く残る薬師如来像は、宗祖最澄自刻の模像ということであろう。 というのは、「薬師経」には像形については触れていないからだ。 (天竺や震旦では、薬師仏造像に力を入れなかったと見られている。) 弟子の円仁も、比叡の薬師如来に帰依していた。 ●[巻十一#11]慈覚大師亙唐伝顕密法帰来語 [→円仁入唐物語] 大陸で、 大師は丑寅(北東)方角に掌を合わせ礼拝し、 「本山の三宝薬師仏、 何卒、我をお助けになり、 故郷へ帰らせ給え。」と祈願。 唐朝の仏教弾圧は凄まじく、大陸の仏教ネットワークはずたずたにされてしまい、本山への祈願しか道が無かったのであろう。 頼れるのは、最澄自刻の薬師仏像。 次ぎに取り上げるのは、義浄[訳]:「薬師瑠璃光七仏本願功徳経」に基づき、この円仁が始めたという天台の七仏薬師法(四箇大法)の霊験譚。 【本朝仏法部】巻十二本朝 付仏法(斎会の縁起/功徳 仏像・仏典の功徳) ●[巻十二#23]於法成寺薬師堂始例時日現瑞相語 入道大相国殿[=藤原道長]が法成寺を建立された。 境内の東に、西向きに子午堂を建造し、七仏薬師を安置。 供養は1024年6月26日だった。 その後、その御堂での例時のお勤めの日、 御子の関白殿[=藤原頼通]、公卿、殿上人、諸大夫まで、皆参上。 僧もすべて揃って、講が始まった時のこと。 御堂東側に控えていた従者の僧達が、空を仰ぎ見て大騒ぎ。 御堂西側にいた人達はこの騒ぎを聞きつけ、 外に出て空を見上げると、 長さ10丈ばかりの5〜6筋の五色の光が、 東から西の方に移動していった。 まるで、錦の様だった。 見た人は、不思議な事と思って、しばらく見守っていたが、 そのうちに消滅。 そのため、身分の高い人達のほとんどは見ず仕舞い。 講終了後、入道殿は、この事をお聞きになった。 「そのような事を、私に知らせもず。見させなかったとは。 極めて心残り。」と仰せに。 後になって見た人が言うには、 まるで霞のようで、有るか無きかだった、とのこと。 どう見ても、奇跡が起きた訳ではない。「今昔物語集」編纂者は、"事実"をママ収録したにすぎまい。 上記を見てもわかるように、「今昔物語集」編纂者は周到。 "木彫"薬師仏信仰の原点を示唆するような譚も用意している。 日本列島には、もともと御霊木信仰が古くからある訳で、漢方処方的にも一部を頂戴して服用することが行われていたと見てよかろう。ところが都市化が進んで、そのようなことが簡単にできなくなる。当然、治療術と薬剤が登場してくる訳だが、霊木信仰が消えた訳ではないから、木彫仏信仰に受け継がれと見ることもできよう。 従って、お薬師様信仰とは、ご利益追求というより、哲学無用の日々の信仰世界というに過ぎまい。言うまでもないが、プラセボの威力は決して小さなものではない。 ●[巻十二#19]薬師仏従身出薬与盲女語 平城京 越田池の南にある蓼原里での事。 その地の、蓼原堂には木像薬師仏が安置されていた。 安陪天皇[=女帝称徳天皇 在位:764-770年]代。 その村に盲目の女がおり、女の子を産んだ。 その子が7才になった頃だが、母は寡婦であり、 貧しくて食物がなく、助けも得られない状況。 「これでは、餓死間違いない。 盲目なので、東も西も分からないから、 求めに出かける訳にもいかない。」と、 嘆き悲しんでいた。 「これほど貧しいのは、 前世の悪行の報いなのだろうから、 飢え死にすることになろう。 それまで、生きている間は、 仏の御前に詣で、礼拝奉るだけ。」と、 娘に手を引いてもらい、蓼原堂に参詣。 寺僧が同情し、戸を開き招き入れてくれたので、 薬師像を礼拝し御祈祷。 「私はこう聞いています。 "お薬師様は、御名を聞いた人の病をお治して下さる。"と。 私だけが漏れてしまうことはありますまい。 前世の悪行が酷くとも、 どうか、お薬師様、お慈悲を。 願わくば、眼をお与え下さい。」 泣く泣くお願いし、 そのまま御前を立ち去らず坐り続けたのである。 2日後、連れて来た娘が御仏像を見奉ったところ、 突如、御胸の辺りから桃樹の脂の様な物が垂れて来た。 そこで、その様子を母に告げたところ、 「それを食べるから すぐに、垂れ出て来た物を取って持ってきておくれ。」とのこと。 早速、そうすると、とても甘い、と。 そうこうするうち、忽ちにして二つとも目が開いたのである。 周囲がはっきりと見えたので、母は、喜び感激。 泣きながら五体投地でお薬師様に礼拝し奉ったのである。 (C) 2019 RandDManagement.com →HOME |