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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.12.26] ■■■
[179] 吉祥天
吉祥天はヴィシュヌ妃[ラクシュミーLakṣmī]の中国名だが、ベーダ教典中の愛の神カーマの母親であり、密教では毘沙門天妃となる。
像のお姿は中国貴婦人であり、天竺的な風合いを全く感じさせない。 [→吉祥天女]

「今昔物語集」では、まずは、鎮護仏教の説明がなされる。
無味乾燥な事典的な内容だが、ここを理解しておく必要がある。 [→吉祥天の剛腕さ]
  【本朝仏法部】巻十二本朝 付仏法(斎会の縁起/功徳 仏像・仏典の功徳)
  [巻十二#_4]於大極殿被行御斎会語
 聖武天皇の御娘 高野姫天皇[=孝謙・称徳天皇]は、
 学問に優れており、漢詩文の道を極められていた。
 この代に、大極殿での御斉会が初めて行われた。
 大極殿を飾り、正月8〜14日の七日七夜、
 昼は最勝王経講、夜は吉祥懺悔。
 最勝王経の講師は、山階寺 維摩会で昨年講師を勤めた僧が起用され、
 その聴衆や法会用務用僧は、皆、諸寺の優れた学問僧から選ばれる。
 結願の日、講師や聴衆は宮中に招かれて、
 お布施を与えられ、供養がなされる。
 講師は高い床に座し、天皇が礼拝されることになっている。
 最勝王経の中で佛が説かれているからだ。
 吉祥懺悔も、経典中に、
 これを行うと五穀が良く実り、諸々の願いが叶うとされている。
 そこで、
 思慮深き天皇は、
 国家の安寧鎮護のためにこの法会を始められ、
 永久に執り行う行事とされ、今も引き続き行われている。
 そういう意義があるので、
 大臣・公卿、皆が、心を尽くし、この法会開催に力を注いでいる。
 時には、天皇自ら、大極殿に行幸され、
 法会で礼拝される。
 これも、経典が説く通り。
 諸国の国分寺でも、この法会は同時に開催される。
 そういうことなので、
 本朝の、優れた仏事供養と言えば、この法会と言う事になる。
 高野姫天皇が法会を制定されたのは、
 768年正月の後七日のことであり、御斉会と称された。


これを踏まえて、何故に以下のエロ譚収載を決めたのか、考える必要があろう。
もっとも、この譚は本当は欠文扱いで、補遺@鈴鹿本として別途収録されていたので読める訳だが。
  【本朝仏法部】巻十七本朝 付仏法(地蔵菩薩霊験譚+諸菩薩/諸天霊験譚)
  [巻十七#45]吉祥天女𡓳像奉犯蒙罸語
 聖武天皇代。
 和泉の和泉郡にある血淳上山寺に
 吉祥天女攝像
/塑像が安置されていた。
 
(「古事記」の血沼之別[⇒和気]であろうか。)
 そこに、縁あって、信濃から世俗の男がやってきた。
 その男、像を見た途端に欲情。
 心を奪われてしまい、
 朝から晩まで思慕の念にとりつかれてしまった。
 この天女のような姿、形が美しい女を与えて欲しいと
 常に祈願するまでに。
 そのうち、男は、山寺でその天女と交わる夢を見た。
 目覚めて、不思議なこともあると思い
 翌日、山寺の天女像参詣。
 すると、像の下半身の衣服の腰辺りに、
 汚い婬
[ザーメン]の染みができているではないか。
 男はそれに気付くと、過ちを悔い、嘆き悲しんだ。
 「欲情して、"天女の様な女を与えて欲しいと願いはした。
  しかし、畏れ多くも、天女御自身が交わらせてくれるとは。」と。
 もちろん、恥じて、他人に語ることはなかった。
 ところが、その男の側にいる弟子が盗み聞きしていた。
 その後、無礼なので、男に放逐されると、
 他の里に行って、師を誹り、その出来事を語った。
 聞いた人々は、本当か確かめに、その師のもとへ。
 しかたなく、師はすべてを赤裸々に語った。


マ、単なる夢精でしかなく、現代でも、アニメの非人間的キャラクラーに欲情する人がいるそうだから、なんら驚くようなことではない。しかし、そのような話を表だって収載するのには驚かされる。
江戸期とは違って、この時代には、エロ本はなかったようだから、極めて危険な試みと言ってよかろう。

次は、仏教説話の役割はコレと気付かせる珠玉の一譚と言えなくもない。
この手の「神にお助け頂いた。」との言辞は、面子社会のなせる技であり、クリシェ。皆、何が起きたのか知っているが言わない。
小生は、西洋が本場とみているが、確証がある訳ではない。
  [巻十七#46]王衆女仕吉祥天女得富語
 聖武天皇代。
 王衆は23人。心ひとつにと契り、
 順番に食事中心の宴会を開くことにしていた。
 ところが、このなかに貧乏で食事を用意できそうにない女王が居た。
 すでに、22人が宴会を済ましており、番が回って来た。
 そこで、奈良の左京の服部堂を参詣、
 吉祥天像に泣く泣く祈願。
 「前世に貧窮の種を播いてしまい、貧窮の報いを受けております。
  我ら、23人、契りで宴会を設けており
  私は御馳走になりましたが、食膳を提供することができません。
  どうか、私をお哀れみ下さい。・・・」と。
 その後、家で、幼児が急に走って来て、
 古京から食膳が運ばれて来たと告げる。
 持ってきたのは、女王の乳母で、これで客人を歓待するように、と言う。
 宴会用飲食物に鋺器等の荷を38人の使いの者が持ってきたのである。
 王女は大いに喜び、早速王衆を招待して宴会を開催。
 今迄以上に優る宴会膳だった。
 王衆は、皆喜び、「富王」と呼んで賛辞。大満足の態。
 舞い踊り、遊戯で過ごし、
 着ている衣裳や銭、絹、布などを女王に贈った。
 女王はすべて頂戴し、
 「これは偏に乳母の徳のお蔭。」ということで、
 その衣裳を乳母に捧げ、着用させたのである。
 それを着ると乳母は返って行った。
 そんなことがあって、
 女王は、服部堂の吉祥天女へのお礼参りに参詣。
 すると、乳母に与えた衣裳が天女像に着せてあった。
 怪しく思い、返ってから 乳母に人を派遣し尋ねたところ、
 乳母は飲食を贈った覚えなどないと答えたのである。
 これを聞いて女王族は泣く泣く
 「そういうことでしたか。
  天女様が私をお助け下さったのですね。」と感じ入り、
 さらに、吉祥天女にお仕えするように。
 それからと言うもの、女王は大変富裕になり、
 沢山の財宝を抱えるようになり貧窮を愁うことなどなくなった。


以下は、#45同様に本来は欠文。
貴族層は贅を尽くした生活ができるが、下層官僚になると、食べ物のも事欠く生活に成り兼ねないのが社会の実態だったのだろう。
寺はそのような困窮者を救う役割を務めていたのであろう。ただ、悲田院的な制度は上手くいかなかったようだ。
  [巻十七#47]生江世経仕吉祥天女得富語
 越前の生江世経は、加賀国司の第三等官 掾だが、
 家は貧しく、食べる物にも事欠く日々。
 吉祥天女にお仕えするしかなかった。
 初めは、端正で美麗な女人が訪問して来て、
 餓えているならと、一盛りのご飯を与えてくれた。
 世経は喜んで、先ず少し食べてみると、すぐ満腹に。
 2〜3日経っても空腹にならないので、飢餓感が失せた。
 そこで、この御飯を取り置きし、少しづつ食べていた。
 日が経ち、すべて無くなったので、
 前のように、吉祥天女に念じたところ、
 又、門前に女人が現れ、今度は文書を下げ渡すと告げた。
 見ると、そこには、「米三斗」と書いてあった。
 そこで、世経が、何処で請うのか尋ねると、
 「北方に行き高い峰の頂上に登りなさい。
  そこで、"修陀、修陀"と呼べば、
  それに応えて出てくる者が居るから、
  その分だけ請いなさい。」と言う。
 教えられた通りにすると、
 高音で恐ろしげな声がして、
 額に角が一本生え一つ目の、赤色の俗衣を着た鬼が登場。
 その前に膝まづいたが、限りなく恐ろしかったものの
 御下文がありますので、
 この分のお米を頂戴いたしたく、と念じた。
 鬼は下文を見て、三斗と書かれておるが、
 「一斗を捧げよ。」と仰せになったと言い
 袋に一斗の米を入れてくれた。
 袋を頂戴し帰宅。
 その袋の米を取って使っていたのだが、
 取れども取れども尽きることがない。
 これを耳にした国守、その袋を売れと命じた。
 仰せなので拒否もできず、従うことに。
 代償は米百万石だった。
 確かに、その袋からは尽きずに米が出て来た。
 ところが、米百万石を取り終ると出て来なくなった。
 目論みが外れ、口惜く思ったものの、それ以上どうしようもなく
 その袋を世経に返したのである。
 すると、再び、お米が出るように。
 際限なき富裕を手に入れたのである。


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