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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.12.30] ■■■
[183] 仁王般若経
護国三部経の「金光明経」をとりあげたので[→]、「仁王般若経」も。

もちろん、仁王会の根拠となっている経典である。

この法会は、中華帝国では559年@陳、本朝では660年に初めて行われたと伝わる。
天皇一代一度の天下泰平の行事に限定されず、災害・盗賊の除難ということで一般化し春秋年中行事化。さらに、問題発生対処の臨時開催と次第に対象領域が広がっていったようだ。

"仁王"としているからには、本来的には、皇帝への仏法附嘱、あるいは皇帝=転綸聖王とみなす経典だろうが、除難呪術の霊威ありということでの流れなのだろう。
ただ、この場合の"仁王"概念は、儒教的な絶対君主としての天子ではなく、国王は菩薩行としての政治を執り行うべしということなので注意が必要だ。
"仁王"という、限定した領域での、菩薩行成就としての般若波羅蜜を説いていることになるからだ。

佚書、竺法護(晋)[訳]:「仁王般若経」@267年 1巻があるから、大乗経典としてはかなり古くに成立していたようだが、現存漢訳は2種。
  鳩摩羅什(后秦)[訳]:「仁王般若波羅蜜経」@401年 2巻
  不空(唐)[訳]:「仁王護国般若波羅蜜多経 」@765年 2巻

不空三蔵[705-774年]の仁王呪譚。・・・
  【震旦部】巻六震旦 付仏法(仏教渡来〜流布)
  [巻六#_9]不空三蔵誦仁王呪現験語
  ⇒非濁[撰述]:「三寶感應要略」中56釋清虚為三途受苦衆生受持金剛般若經感應
  ⇒非濁[撰述]:「三寶感應要略」中58唐玄宗皇帝自誦仁王經呪請天兵救安西感應
 南天竺の不空三蔵は、幼少の時、金剛智に従って震旦に渡り衆家。
 秘密の教えを伝授される。
 玄宗は国師とする。
 742年、安西城が西蕃大石康五国軍に攻められたので、
 玄宗は2万の軍勢を派遣。
 大臣の上申を受け、
 玄宗は毘沙門天の救いを得るために
 不空三蔵に請う。
 仁王護国経の陀羅尼を読誦し撃退。


  【震旦部】巻七震旦 付仏法(大般若経・法華経の功徳/霊験譚)
  [巻七#11]震旦唐代依仁王般若力降雨語
  ⇒非濁[撰述]:「三寶感應要略」中59 唐代宗皇帝講仁王般若降雨感應
 代宗治世の765年の秋、
 旱魃に見舞われた。
 代宗は仏法の力で雨を降らせようと考え。
 8月23日詔で、資聖寺と西明寺に100人の法師を集め
 新訳版仁王般若経の講を開催。
 三蔵法師不空は惣講師を勤めた。
 9月1日、空に黒雲、降雨。
 "胡寇辺京城亦因皇変"


  [巻七#12]震旦唐代宿太山廟誦仁王経僧語
  ⇒非濁[撰述]:「三寶感應要略」中60 舊譯仁王經感應
 徳宗代[779-805年]
 大山府君廟堂で宿した僧が
 新訳仁王経の四無常の偈を読誦。
 夢に太山府君が登場し、経典の問題点を指摘。
   羅什翻訳の詞は義理瀬正当で違っている点は無い。
   読誦の声を聞いていると心身が清涼となる。
   一方、新訳の方は、
   文詞は極めて美しいのだが
   義理では今一歩である。
   従って、旧訳の経を持つべき。
  そして、毘沙門天から経巻を与えてもらった。
 そこで夢から覚めたのである。
 こんなことがあって、僧は、新旧翻訳版を持つようになった。


  【本朝仏法部】巻十四本朝 付仏法(法華経の霊験譚)
  [巻十四#35]極楽寺僧誦仁王経施霊験語
 堀川太政大臣藤原基経が、極めて重い熱病に罹った。
 さまざまな祈祷がなされ、
 世の高名な僧侶で召されない者なしという状況。
 お屋敷は、連日賑やかで、騒々しいこと限りなし。
 ところで、この殿が建立した極楽寺の僧達には
 お召しもなければ、御祈祷要請もなく、
 仰せがないので、誰一人参上しなかった。
 そんな折、一人の僧侶が思うに、
   「極楽寺に住することができるのは、殿のお蔭。
    殿がお亡くなりになれば、このまま居れる筈がない。
    お召しがなくとも、参上すべきではないか?」と。
 それで、仁王経を持ってお屋敷へ参上した。
 騒がしいので、中門の北の廊の隅で屈み込み、
 誰も目にする者がいない状況だったが、一心に仁王経読誦。
 2時ほど経ち、病床の大臣が仰せに。
 「極楽寺の僧での大徳は居るか?」と。
 「中門の脇の廊下に居りました。」と答えた者がいて、
 「それなら、こちらへ呼べ。」と仰せに。
 周りの人々は不思議に思った。
 高僧ではなく、この場にふさわしくない僧だったからである。
 ともあれ、仰せの通りに、その僧に来るように告げた。
 すぐに、僧はやって来て、
 高僧達が居並ぶずっと後の縁側でひれ伏した。
 大臣が尋ねるので、南の簀子で控えていると申し上げると
 「内へ呼び入れよ。」と枕元に召した。
 一言発するのも苦しいほどの重病だったにもかかわらず、
 この僧を招くと、不思議なことに、顔の色が良くなって来た。
 そして語ったのである。
 「我は、寝ている間に夢を見た。
  恐ろしき鬼共が、我が身を順番に打ち据えていた。
  そこへ角巻髪を結った童子が細杖を手にして、
  中門から来て、その杖で鬼共を打ち払ってくれた。
  鬼共は皆散り散りになって逃げ去ったので、
  "如何なる童子がなす業が?"と尋ねたところ
  "極楽寺の聖が、汝が苦しまれていると嘆き悲しみ、
   今朝方より、中門の脇に参上し、
   長年読み奉ってきた仁王経を
   一心に読経し、祈祷しております。
   その聖の護法が、苦しめてきた悪鬼共を追い払ったのです。”
  それを聞いたところで、夢から覚め、
  気分が良くなった。
  その喜びを伝えたく、呼んだのである。」
 そして、手を摺り合わせ、僧を拝み、
 棹に掛けてあった御衣を取らせ、この僧に着せた。
 「寺へ戻って、一層、御祈祷するように。」との仰せがあり
 僧侶は喜んで、退出したのであった。
 見送る僧、俗人達は大いに有り難がり、
 美々しい姿で退出する姿を見送ったのである。
 「祈りとは、母の尼のような心でするべし」
 と、昔から言い伝えられているのも、そういう意味なのである。
 

ご教訓は、"母の尼君を以て祈らしむべき也。"である。
パトロンを失えば、路頭に迷って修行どころではなくなるかも知れないのだから、招請された高僧達とは本気度が違っていたのは間違いない。

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