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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.12.29] ■■■
[182] 金光明経
護国三部経とは、「法華経」、「仁王般若経」、「金光明経」。

このうち、「金光明経」は、最勝会法会、金光明懺法、放生会、と、四天王寺・国分寺/金光明四天王護国之寺建立の根拠となっている。
  《南京三会》
  最勝会@薬師寺 3月7日から7日間
  維摩会@興福寺/山階寺 10月10日から7日間
  御斎会@宮中 1月8日から7日間
  金光明最勝王経講会@宮中 5月5日間

「金光明最勝王経」読誦/講の御斎会と最勝会はすでに取り上げた。
  【本朝仏法部】巻十二本朝 付仏法(斎会の縁起/功徳 仏像・仏典の功徳)
  [巻十二#_4]於大極殿被行御斎会語 [→吉祥天]
  [巻十二#_5] 於薬師寺行最勝会語 [→薬師寺ご本尊]

法会とは縁遠くても、法隆寺所蔵の玉虫厨子の"投身餓虎-捨身飼虎図"はご存知だろう。これは、「金光明経」捨身品の図絵化だ。
   [→"ジャータカ・マーラー"(2019.6.30)]

さて、この経典だが、現存漢訳は3種ある。
  曇無讖(@北涼)[訳]:「金光明経」 (4巻18品) 412年
  宝貴(@隋)[訳]:「合部金光明経」 (8巻24品)597年
  義浄(@唐)[訳]:「金光明最勝王経」 (10巻31品) 703年
これらの途中にも佚書があるそうで、徐々に増補されていき、義浄版で完成形になったことがわかる。この書が成立して、護国の法会が盛大に行われるようになったと見てよさそう。尚、本朝には、義浄版の、紫紙金字の端正で美しい字体の唐風写経が残存している。

「今昔物語集」では、この義浄[635-713年]版の完成を、仏教史メルクマールとして扱っている。
  【震旦部】巻六震旦 付仏法(仏教渡来〜流布)
  [巻六#42]義浄三蔵訳最勝王経語
   ⇒「三寶感應要略」中30 則天皇后供養金光明最勝王經感應
(唐 高宗の皇后)女帝 武則天の時代。
 
(弥勒菩薩の生まれ変わりと称し、)
 仏記を受けて、深く仏法を信じ、広く衆生を哀ぶ。
○義浄三蔵聖人は斉州
(山県)俗名は張文明。
 
(幼くして出家し、)法を求むる心深く
 
(一人海路で、)天竺に渡った。
 
(25年間で、)30余りの余国を遊行。
 本の震旦に還り来て、法を弘む。
 703年10月4日、西明寺にて、金光明最勝王経漢訳を完了。
 「沙門波崙・恵表・恵治等筆受」と記載されており、
 同月15日に同寺で供養。
 武則天は喜びかる貴びて、
 100尺幡2口、40尺幡49口、絹100疋、香華・灯明等の供具を施した。
 すべて、七宝で荘厳。
 供養時、紫雲が寺を蓋い、経巻からは光が放出。
 大地も少しだが動き、天からは細かな花が降ってきた。
 仏記からすれば、今後500年間に、このような霊験はなかろう、と
 世を挙げて、義浄三蔵に帰依する奔流が生まれた。
 武則天は、ただただ崇拝。

 
同じ巻に霊験譚も収載しているが、これが本朝の類似譚のモトネタということ。
  [巻六#41]張居道書写四巻経得活語
   ⇒「三寶感應要略」中29州張居道冥路中發造金光明四卷願感應
 震旦温州の州刺史現地採用の治中、張居道の話。
 女子のために、猪・羊・鵝・鴨等を殺した。
 その後10日も経たないうちに、居道は病で死んでしまった。
 ところが、三夜の後に蘇生した。
 その事情を語ったのである。・・・
 「死んだ当初、四名が来るのが見えた。
  懐から、一張の文書を取り出し、私に見せて言った。
   "これは、汝が殺した、猪・羊・鵝・鴨等の訴えである。
     “我等は前世の罪で、今、畜生の身だが、その命には限りがある。
      ところが、居道によって、非分にも命を奪はれた。”と。
    この件で、汝を召すのである。"
  と言い、
  私を打ち、縛って、引っ張られて行った。
  一本道を北に向って行く間のこと。
  行路途中で、その副使が言うには
   "汝はまだ死期に達していない。
    何か方便を以てして、生き返るべきだ。"と。
  そこで、
   "事実、この手で殺生してしまったのだから、
    逃れるのは極めて難しい。"
  使は言う。
   "汝、殺生は確かに数多いが、
     “その殺してしまった生類の為、心を発し、
      四巻の金光明経を書写し奉ろう。”
    と願をかければ、免れることができよう。"と。
  居道、この教へを聞いて、言われた通りに唱した。
  そうこうするうち、遂に、城内に。
  見ると、庁の前に数億もの、それこそ無数の罪人が居た。
  皆、悲み、痛みいっている。
  その声を耳にして、際限なき恐怖心が湧いてきた。
  その時、使は、連行してきた事由を王に上申。
  王は、猪・羊・鵝・鴨等の訴状を示したので、
   "私が殺したのは事実でございます。
    いまさら陳情する点などございません。
    但し、願くは、
     “殺してしまった猪・羊・鵝・鴨等の為に、
      四巻の金光明経を書写奉ろう。”
    と考えております。"と申しあげた。
  その時、この殺された生類、皆、この功徳で、
  各業に従って、形を顕わしたのである。
  王はこれを聞いて歓喜し、生き返る路に還してくれた。
  そういうことで、私は蘇生したのだ。」
 と語った。
 その後、心を発し、忽に四巻の金光明経を書写し、供養奉った。
 これを聞いて、
 100人あまりの人々が、殺生を断ち肉食を止めた、そうだ。

「金光明経」写経の"願"だけで放免となるのだから凄い。

それを踏まえて、本朝譚を読むと、こう言っては失礼ながら実に面白い。結構、描写が細かく、いかにも生活を楽しんでいる能書家らしき風情が伝わってくる話も。
尚、ハイライトをあてたい増賀の祖父を取り上げることで、父のあっけない死を思い出させる嗜好かも。
 ○橘良殖[864-920年]
 │
 ○橘敏行
 │[三男]
 ○橘恒平[922-983年]
 │  11月11日:参議任官
 │  11月13日:罹病し出家
 │  11月15日:死去
 ○増賀[917-1003年]

  【本朝仏法部】巻十四本朝 付仏法(法華経の霊験譚)
  [巻十四#29]橘敏行発願従冥途返語
 左近少将 橘敏行は和歌も上手だが能筆家である。
 そんなことで、頼まれて法華経を書写したり。
 そんな生活をしていたが、突然死去。
 冥界の使者に、200部書き奉ったと言ったが、
 精進とは無縁な、肉食・女犯者だと追求される。
 その償いで身体が200に切り刻まれると。
 川を見れば、棄てられた、不浄な写経の墨が流れている。
 当然ながら、写経依頼者も悪趣に堕ちてしまう訳た。
 余りの恐ろしさで身も竦む思い。
 しかし、咄嵯に頭を働かし、門のところで、"四巻経"写経の願を立てた。

 曇無讖[訳]「金剛明経」四巻十八品@412〜421年
 冥官にそれを申し立てることで許され蘇ったのである。
 しかし、写経用料紙は用意したものの、
 再び、快楽に溺れ、写経を怠ってしまった。
 そこで、死後悪趣に堕ちてしまう。
 そこで、歌詠みの紀友則
[845-907年 三十六歌仙]に写経を依頼。
 早速、僧に料紙を渡し書写してもらうと、
 2人の夢に登場し、地獄苦を免れたと報告。
 もっとも、「少し免れたり」だが。

ご教訓は、輝きがない。遊び戯れているのは愚ですゾと言うだけだが、それが面白さを誘う。これは、法華経の報い話なのか、"四巻経"写経を誓願すると地獄行を逃れるという話なのか、はっきりしていないからである。

と言うか、"法華経 v.s. 金剛般若経"[→]と同じように、"妙法蓮華経 v.s. 金光明最勝王経"の創作譚らしものを収録したかったようで、その前段ということかも。
  【本朝仏法部】巻十三本朝 付仏法(法華経持経・読誦の功徳)
  [巻十三#40]陸奥国法花最勝二人持者語
陸奥の二人の僧。
 一人は、最勝王経受持の光勝。
 もう一人は、法華経受持の法蓮で、本興福寺の僧。
 本寺を去って生国に戻って来て住している。
 聖人二人ともに、心直く身清く、法花と最勝を持ち、霊験を施した。
 当然ながら、国の人々は、崇め貴んでいた。
 そうこうするうち、
 光勝聖人、法蓮聖人に
 「汝、法華経を棄てて最勝王経を持つべきだ。
  最勝は甚深なる点で、他の経典より優れており、
  だからこそ、最勝王経と言うのだ。
  従って、公も、御斎会と名付け、年始に講を行う。
  さらに、諸国でも吉祥御願と名付け、国分寺で経を講じている。
  それに、公は最勝会と名付け、
  薬師寺で経を講じ、法会を行なっている。
  と言うことで、
  公も私的にも、この経典を最高として仰いでいる訳だ。」と。
 法蓮聖人はこれに対して、
 「仏の説き給ふところは、
  何だろうと、貴く無いという箇所などございません。
  我、宿因に引かれて、長年、法華経受持をしております。
  どうして、
  急に、法華経を棄て、最勝王経にすることができましょう。」と。
 光勝聖人は法蓮聖人を勧め煩うのだが、黙して止めてしまった。
 さらに、最勝王経の威力を憑み、
 事あるごとに、法華経受持の法蓮聖人をを言い煩はしたが、
 法蓮聖人はそれに答えることをしなかった。
 そこで、光勝聖人は
 「この2ッのお経だが、どちらが優れているか、
  勝負して決めるべきだ。
  法華経の霊験が優れているなら、
  我は、最勝王経を棄て、法華経に従う。
  もしも、又、最勝王経の霊験が優れていたなら、
  法蓮よ、法華経を棄て、最勝王経を受持すべきだ。」と。
 そのように言われたものの、
 法蓮聖人は、そこまでやろうという気は無い。
 光勝聖人は、
 「それなら、我等二人で、それぞれ一町の田を作って、
  一年の作物の優劣で、お経の霊験の勝劣を決着しようではないか」と。
 郷の人達は、この事を聞いて、
 それぞれ一町の同じ様な田を、二人の聖に預けたのである。
 そうすると、
 光勝聖人は、この田に水を入れ、心を至し
 最勝聖人に申したのである。
 「お経の力に依って、種を蒔かずとも、苗を植えずとも、
  この年の作量を増加させよう。」と。
 祈請し、田を作ったが、
 どちらの田からも、苗が茂り生える事は無かった。
 月日を経ると、違いがでてきた。
 光勝聖人の田は稔り豊かになり、優れたいたが
 法蓮聖人の田の方は作物も無い。
 心の如くに、その田に入る人も無いから、荒れて草だらけ。
 そこで、馬牛が勝手に田の中に入って食み遊んでいた。
 国内の上中下の人達は、これを見て、
 最勝聖人を貴び、法華経の聖人を軽視するように。
 そのうち、7月上旬になると、
 法華経の聖人の一町の田の中央から、瓠が一本生えてきた。
 そいて、しばらくするうち、枝が八方に伸び始め、
 またたくうち、一町ことごとくを敷きつめてしまった。
 高く茎が伸び、隙が無いのである。
 2〜3日すると開花し実が成った。
 瓠の一つ一つが大きな壺のようになりて、隙無く並んで臥せた状態に。
 ただ、これを見ても、人々は皆、最勝聖人を讃嘆していた。
 法華経の聖人は成った瓠を見て、奇異感を覚え、瓠を1つ取った。
 皮を破って中を見ると、精米が満ちていたのである。
 その粒は大きく、白さは雪の様だった。
 聖人は「希有な事。」と思い、斗枡で量ると、
 1つの瓠の中に5斗の白米が入っていた。
 他の瓠も破って見たが、どれも皆同じ様なもの。
 ここに至り、法蓮聖人は喜び悲しみ、
 郷の諸々の人達に告げ、見せたのである。
 そして、先づ、取れた白米を仏経に供養した上で
 諸々の僧を招請して食べてもらった。
 そして、一□分の瓠を光勝聖人の房に送り届けたのである。
 光勝聖人は、これを見て、妬んだのではあるが、
 法華経の霊威力を見て悲しみ貴び、
 法蓮聖人を軽視した事を悔いて、従うようになった。
 どもあれ、聖人のもとに行って礼拝し懺悔したのである。
 法蓮聖人は、この瓠の米を国内の道俗男女に施した。
 人々は、皆、好きなだけ取ったのである。
 しかし、瓠は、12月迄、枯れなかったので十分だった。

お経の価値は、豊穣をもたらすかどうかで決まるものですゾということだが、裏を返せば、実態的には、土地の現地支配層がすでに法華経のパトロン化していたことを意味していそう。最勝王経は、中央貴族のための"国家鎮護"と見なされたということなのだろう。

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