→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2020.1.14] ■■■ [198] 落蹲 【本朝世俗部】巻二十八本朝 付世俗(滑稽譚) ●[巻二十八#35]右近馬場殿上人種合語 ところが、この舞が行われた場面設定は、多好茂の没後。 ワッハッハの構成にしたのである。つまり、逸話合成譚ということになる。伝承話とは所詮こんなものですよと、ということか。 それでは、先ずは冒頭の《種合》の状況描写から。 草闘は中華帝国で流行った薬草採取合戦で一種の賭け事。本朝に伝わり、小規模な草合が始まり、やがて物での勝負となった。やがて、チーム合戦になり、細工物で優劣を競うようになり、種合と呼ばれるようになったとされる。 ○後一条天皇代[在位:1016-1036年]のこと。 時の関白は藤原頼道。 《種合》が行われる運びに。 【左方蔵人頭】頭弁 藤原重尹[-1051年]…任官1026年 【右方蔵人頭】頭中将 源顕基朝臣[-1047年]…任官1023年 【開催地】北野の右近馬場 珍品を、諸宮・諸院、寺々・国々、京〜田舎まで、 とんでもない労力。気力を尽くして捜し回った。 殿上人・蔵人・蔵人所の衆・出納・小舎人まで左右に分け、 チーム名簿を作って互いに競わせたので、 皆、前世からの敵の如く、出会っても口もきかぬ状態に。 兄弟、昵懇の間柄など無縁で、熾烈な競争が繰り広げられた。 当然ながら、京中の耳目を集める大々的なイベントである。 ○さて当日だが、 殿上人は立派な直衣姿で車で双方決めた集合所に。 そこから車輌が連なって進むので、素晴らしい光景が出現。 【殿上人の場】右近馬場の大臣屋 大臣屋中央の仕切りから、南が左方、北が右方分かれて着座。 さらに南北に向き合う舎が立ててある。 【大臣屋前平屋】馬場の柵から東西に長い錦 蔵人衆・滝口の侍は左右に分かれ着座。 種合せの品々は、錦の幔幕を引き回らした場に置き、 平張の中で、出納・小舎人が管理。 柵の西には、南北向き合う錦の平張。 勝負の舞の楽器が用意され、舞人・楽人が着座。 その辺りになると、京の上中下の見物人がぎっしり。 車が入る余地がないほどの盛況。 ただ、関白殿お忍びの女車がなかに入っていた。 場所は、柵の東、左方の控え屋の西脇。 ○定刻になり、開幕。 大臣屋前に、順々に座が設定される。 弁舌さが切れ、気の利く、口達者な者が双方の代表として 向かい合って始まる。 一番毎の勝負だ。 財を尽くした金銀装飾の細工物が出され 勝負係が着座し 互いに言葉を尽くして優劣を競った論争となる。 ここからが、この譚の核心部分。 ○イベント半ばにさしかかった。 【左方出し物】 藤原頼通の御随身(護衛役)最盛期の近衛舎人下野公忠が登場。 素晴らしい装束を着けた駿馬に えもいわれぬほど見事な平文移し鞍を置き騎乗。 左方控え屋の南から馬場に打って出た。 見物人、感嘆の声を。 柵の内を一回りし、鞭を取り直して立っていた。 【右方出し物】 右方の控え屋からひどく貧相な老法師が打って出た。 ヘンテコ冠を着け、犬の耳が垂れたような老懸。 右方の競馬装束の、古く薄汚い衣装。 乾鮭を太刀に佩び、 歪んだ装束はだらしなく、腰のあたりはずり下っている。 袴は足先まで落とし、膨らませた。 抹額は猿楽物を着けており、 牝牛に結鞍を置いて乗牛。公忠カンカン。 恥をかかされたと引っ込んでしまった。 右方の者は手を叩き、大声で笑い合った。 【右方出し物】はどうみても、召請されてしかたなく奇行で応じた増賀聖人の姿である。[→多武峰] この格好はインパクトが大きかったようで後世まで語り草になっていたようだ。 年守や 乾鮭の太刀 鱈の棒 與謝蕪村 ここで、とりとめもなくなったようで、イベントは混乱に陥る。 ○左方を大笑いする状況になった。 まるで節会での相撲人が負けて引っ込む時のよう。 種合勝負がすべて終わった訳でもないのに、 決着後に行なわれる勝利の舞が前倒しに。 【右方の勝ち誇り】 乱声を鳴らし、一人舞の《落蹲》を奏舞。 《落蹲》 釣顎銀歯紺青色龍面一人舞 《納蘇利》…2龍二人舞 【左方は準備のみ】 《陵王の舞》 《陵王》切顎金色龍面一人舞 左方はどうしたのかと戸惑うだけ。 ○お忍びの関白殿"けしからん"ということで、 「あの落蹲舞人を必ず捕縛せよ。」 と大声で命令。 これを聞き、落蹲舞人は踊りながら飛び出し、 装束も脱がず、一目散に逃げ馬に飛び乗って 西へ向かい大宮大路を南へ駆け抜けた。 その舞人は歌舞管弦家の多好茂/好用[公用の子 934-1015年]。 この部分は、違う時代の話ということになる。 関白殿は藤原頼道ではなく、藤原道長。 多好茂がどうなるかだが、ここは簡単な記述。 ○多好茂は面がわれるのを心配。 仮面のままで馬で疾走して行ったのである。 刻は申(4:00pm)頃。 道行人は騎乗した鬼が行くと大騒ぎ。 幼い子供は恐れ慄き、本当の鬼と思って病気になった者も。 この後は解説である。 関白殿の本心は、最後の舞を始めたので、制止しようとしただけとされる。マ、どうあろうと、多好茂は不興をかうから出仕できなくなるが、その程度で済ませることにしたというにすぎまい。 しかし、京をあげた湯水のように金を浪費するだけの大々的イベントをオジャンにしたのであり、それをどのように誰に責任をとらせたのか全く触れず仕舞に終わったということ。 関白の施策に対する強烈なパンチに対して、流石に報復できなかったのである。 と言っても、パンチを喰らわせることを企画した右方の人々を快く思う筈はなく、自分の御随身の左方蔵人頭を重んじていると言われたと記述している。マ、その程度で終わらせるしかなかったのである。 要するに、「今昔物語集」版では、《種合》という馬鹿げたイベントなど止めてしまえという底流を、頭中将 源顕基朝臣が見抜いて仕掛けたということになる。 ここらの記載が、雅楽の家元史と全く合わなのは当然のこと。どうやって、浪費イベントを止めたかを描いただけ。 実態からいえば、多好茂と関白藤原道長の騒動で以後中止にはならなかったのだろう。しかし、関白が頼道になってから、当事者たる頭中将 源顕基朝臣が、あの様な騒動もあったことだし、いい加減に《種合》は止めるべしと進言したと考えるのが自然である。後に隠れているとはいえ、権力者として存在感を示せるイベントを止めたくはなかったろうが、そうもいかなくなっていたのであろう。 多家の流れから言えば、あくまでも、関白藤原道長と多好茂の騒動である。それは、一条天皇代[在位:986-1011年]のイベントだが、天王寺に伝わる採桑老の舞発祥譚としての意味でしかない。尚、ネット情報で確認していないが、「吉野吉水院楽書」では、逃げた先の天王寺で3年過ごしてから、帰京とされているそうだ。一方、「教訓抄」では、舞は子の政方との《納蘇利》で、天王寺に逃れて戻らなかったとされているという。 (C) 2020 RandDManagement.com →HOME |