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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.9.3] ■■■
[65] 多武峰
多武峰とは、伝、藤原鎌足と中大兄皇子が蘇我入鹿討伐で密談した場所。

場所的には、桜井南部 寺川上流竜門山地の御破裂山[619m]南斜面ということになる。この尾根の端部は香久山である。
もともと信仰対象の山だったのだろう。そこを聖地としたのは37代斉明天皇。656年に観(軍事施設とは思えないから、道教寺院であろう。)両槻宮を創建。[「日本書紀」]

それが、"多武の峰は大織冠の御廟也。"と呼ばれるようになったのは、858年に多武峰墓を十陵四墓とみなしてからだろう。時代的にはかなりの後世。[「日本三代実録」]
そして、現代は、御祭神 藤原鎌足公の談山神社となっている。由緒によれば、鎌足長男の入唐僧 定恵(藤原鎌足長男 真人)は、十学中の唐より帰国し、父の由縁深い多武峰に墓を移し、十三重塔を建立し、701には聖霊院造営。

鎌足の時代は本朝激動期。
 645年   蘇我氏滅亡 藤原鎌足軍事統括
 655年  37代斉明天皇即位
 660年 唐=新羅連合軍により百濟滅亡
 661年  斉明天皇崩御
 663年 唐=新羅連合軍に白村江で大敗
 668年  38代天智天皇即位
 669年   逝去前日の鎌足に藤原姓/大織冠を下賜


【本朝世俗部】巻二十二本朝(藤原氏列伝)では、蘇我氏を滅亡させたことと、藤原姓を賜ったことは記載されているが[→藤原氏列伝]、鎌足の墓所については触れていない。
ところが拾遺的な箇所にそれとなく書いてある。
  【本朝世俗部】巻三十一本朝 付雑事(奇異/怪異譚 拾遺)
  [巻三十一#35]元明天皇陵点定恵和尚語
大織冠の長男の定恵和尚が43代元明天皇[661-721年]の御陵を選定した話でのこと。
多武峰を候補地にしたが、土地の左右が下がっていて、前後も狭すぎるので他にしたといるのである。それなら、そこで話は終わるのかと思いきや、新たな地を設定したことを記載してから、再び、多武峰についての解説がなされる。
  峰には、大織冠・淡海公も御墓をしたる也。

ところが、この事跡、定恵和尚の没年から考えると有りえないのだ。
しかし、帰国と死亡に関する情報も信頼性は低い。 643年 誕生 藤原鎌足長男 中臣真人
 653年 入唐
 665年 百濟経由で帰国
 666年 没@大和大原
    (一番没年が遅い記載書:708年帰国 712年没)


このことは、この辺りに関する事情については、「今昔物語集」編纂時点で、すでによくわからなくなっていたことを意味しよう。
鎌足の墓所にしてから、はっきりしているとも言い難いのである。「談峯記」に、埋葬地 摂津 阿威山(阿武山古墳@高槻)から改葬し聖霊院を造営したと記載されているらしいが、文献的には他の説も色々とある筈。
(阿武山古墳からは落馬で大怪我して治療を施したと言えそうな遺体と「大織冠」が出土している。)

学者的な興味で、書いている訳ではない。
「今昔物語集」の編纂者は意図的にありえそうもない伝承も、収載しておきたくなったということではないかと思うからだ。

と言うのは、定恵和尚による御陵選定がありえそうにないというだけでなく、元明天皇陵そのものも、軽寺の南の"檜前の陵"しているからだ。
比定地にまず間違いないと言えるような根拠があるとは限らないが、これは間違いである可能性が高い。
 檜廬入野宮…28代宣化天皇 [→古代の都]
 檜隈坂合陵@明日香…29代欽明天皇[509-571年]
 檜隈大内陵…40代天武天皇/41代持統天皇(合葬)
 檜隈安古陵…42代文武天皇
 奈保山東陵@奈良阪…43代元明天皇[661-721年]
 奈保山西陵…44代元正天皇


そもそも、元明天皇は崩御の前に薄葬詔を下し、大和国添上郡蔵宝山雍良岑に火葬し改葬せぬように遺命を出しているのである。樹木を植えて碑を建てた墓であるが、この譚では掘の周りに鬼形石偶を設置し、ほかの陵より勝れたりとしているのだ。

もちろん色々な伝承があって当然でだろう。。
そのなかで、、「今昔物語集」編纂舎は、一番外れていそうというか、仏教サロンの人々だとこれは多分アソコの伝でしょうナと言い出しそうな譚を選んだのだと思う。
何故そう思うかと言えば、大織冠御廟で起きる不思議が書いてあるから。
  天皇の御中と吉らぬ事出来らむとては、
   其の大織冠の墓、必ず鳴り響く也。

なにげなく読んでしまうが、普通に考えれば、国家的重大時に鳴動する話になる筈で、かなり異端的な伝承である。天皇をないがしろにして、関係が悪化する時に反応するというのだから。
どこからか見つけて拾って来た話だろうが、この一文を記載したかったため収録したと言えなくもなかろう。

ご丁寧に、同じ巻きに、その辺りの背景を教えてくれる譚も収載している。
  [巻三十一#23]多武峰成比叡山末寺語
多武峰 妙楽寺は初代座主定慧から比叡山の僧侶が就任している。事実上、比叡山 無動寺の別院だったようだ。天台宗の末寺とされたのは、947年5代座主実性かららしい。尊睿は、7代座主であり、慶命は8代座主。[「多武峯略記」]

一方、「今昔物語集」では、比叡山の僧 尊睿が道心を起こして多武峰に入山し、本寺がないことを憂い、無動寺座主の慶命もに話して藤原道長を動かして末寺化を果たしたとなっている。
両者を辻褄が合うようにするなら、実性が本寺を求めて、6代座主候補に動くように指示し、6代目が正式に上申したのだがペンディング状態であり、7代目がようやく実現したということになる。
話の核は、この末寺化に反対したのが山階寺/興福寺。藤原氏の祖である大織冠の御廟の地であり、菩提寺である以上、山階寺の末寺にすべしと言いだしたのである。
すでに関白が寄進して妙楽寺と命名しており、ひっくり返る道理がないが、比叡山とは対立関係だったということ。

ついでながら、比叡山東塔 無動寺(不動明王)について書いておこる。865年相応が回峯行のために創建し、882年に別院に。
慶命[965-1038年 藤原孝友の子]は27代天台座主。(無動寺5代検校から。)
この話では、律師である尊睿が道長に、阿闍梨 慶命は将来座主になる器であり、律師役を譲りたいと伝える話が入っている。

祇園の山階寺の末寺と天台座主慈恵僧正との対立話もあるように、結構、熾烈なものがあったようだ。[→完璧な明尊護衛]

京で力を発揮する摂政・関白家にとっては、天台・真言に肩入れして天皇側近政治力を強化していきたかったに違いなく、氏寺であるとはいえ山階寺/興福寺の力を強める動きに加担しているように見えるのは避けたかったろうから、どうなるかは初めからわかっていた。
しかし、そんなことは意にかえさない組織になっていたのである。
 「多武の峰は大織冠の御廟也。
  然れば、尤も山階寺の末寺にこそ有るべけれ。・・・・」

と語ったのは、山階寺の大衆とある。学僧の寺ではなく、僧兵の寺へと模様替えが一挙に進んでいた訳である。

  【本朝仏法部】巻十二本朝 付仏法(斎会の縁起/功徳 仏像・仏典の功徳)
  [巻十二#33]多武峰増賀聖人語
多武峰の増賀上人[917―1003年]の話だが、僧兵のような俗世間的関心で生きている擬似僧とは無縁。その落差は凄まじい。

西行法師、鴨長明、吉田兼好、松尾芭蕉、等々から、ほぼ軒並み、風狂の先達とみなされているらしい。書きぶりから見て、「今昔物語集」編纂者も同評価だと思う。大寺院や名跡を嫌い比叡山から下り、俗世間から離れた多武峰で40年間念仏三昧だったと伝わる。
多武峰奥ノ院には増賀上人の塚が現存。念誦崛と呼ばれるらしいが、墓碑が約800基あり、上人への帰依が見てとれる。
 多武峰の増賀聖人の話。
 赤子の時、すでにただものではなかったが、
 4才になると両親に言ったのである。
  「私は比叡山に登り法華経を習い仏法を学びたい。」と。
 10才になり、天台座主横川の慈恵大僧正の弟子に。
 すぐに、立派な学僧になり名前が知れ渡ってしまった。
  朝廷から出仕要請もあったがおことわり。
  仏道修行の気持ちが高ぶる一方だったからだ。
  ついに、比叡山を下り、多武峰に籠ろうと決心。
  座主にお別れを告げたが、認めてくれない。
 そこで、狂気の振る舞いで、離別を実現することにした。
 多武峰では、終日修行を続けた。
  そのうち、夢に、慧思禅師南岳、智者大師天台が出現し、
  「善き哉、善き哉。仏弟子よ。善行なり。」と。
 さらに修行に磨きがかかり、著名になったため
  冷泉院は増賀を護持僧にしようとした。
  参内するものの、奇行を見せつけ、すぐ逃げ帰ってしまった。
  しかし、その結果、評価はますます高まったのである。
 とはいえ、増賀聖人も齢80となり臥せるように。
  死期を悟ると、
  「宿願を果たせそうだ。
   極楽往生の日はもうすぐ。
   これこそ喜び。」と言ってから、説教。
 そして歌を詠んだのである。

   美豆波左須。夜曽知阿末利乃。於比乃奈美。久良介乃保禰爾。阿布曽宇礼志岐。
    瑞歯さす 八十路余りの 老いの波
     海月の骨に 会ふぞ嬉しき

話はここで一段落。続いて、臨終に際してのエピソードが語られる。
 増賀聖人の甥、吉野 龍門寺の春久聖人は仲が良く、
 増賀に付き添ってくれていた。
 臨終の日、春久や弟子達に、
  「我が死ぬのは今日。
   碁盤を持ってきて欲しい。」と。
 皆、仏像の台にするのかと思っていたが、
  「起こして。」と。
 そして、春久を呼んで、苦しい息をしながら、
  「一番。」と。
 念仏を唱えずに碁なので、
  ついに物狂いと悲しかったが、春久お相手。
  ほんの十手で
  「これでよい。よい。」と言い
  石を崩してしまった。
 理由を伺うと、
  「小法師の頃、
   人が碁を打っているのを見た事を
   念仏を唱えながら、ふと思い出してな。
   それで、打ってみたのだ。」と。
 又、しばらくすると、
  「起こしてほしい。」と。
 そして、
  「泥障を1つ探して欲しい。」と。
 持ってくると、
  「結んで、首に懸けてくれ。」と。
 仰せの通りにすると、苦し気に身体を動かした。
  「古泥障を被って舞うてみるゾ。」と言いながら。
 すぐに止め、外して、と。
 今度も理由を伺った。
  「若い時のこと。
   隣の部屋に小法師達が沢山居り大笑いしていた。
   一人がこの踊りをしていた。詠いながら。
     胡蝶々々とぞ人は云へども、
     古泥障を纏てぞ舞ふ
   面白かったことを
   今になって、思い出してな。
   それで舞ってみたのだ。」と。
 そして、
  「今は、思い残すことは一つもない。」と。
 その上で、人払いし、奥の部屋に入り、縄床に居を正し、
 法花経を誦し、手に金剛合掌の印を結て、
 西向になり、入滅されたのである。
 その後、多武峰の山に埋葬された。


[参考]"藤原鎌足および不比等墓所考"@「喜田貞吉著作集3 国史と仏教史」平凡社, 1981年
[ご注意]邦文はパブリック・ドメイン(著作権喪失)の《芳賀矢一[纂訂]:「攷証今昔物語集」冨山房 1913年》から引用するようにしていますが、必ずしもママではなく、勝手に改変している箇所があります。

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