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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.2.11] ■■■
[226] 源信物語 [6:インプリケーション]
横川での僧の系譜をまとめてみたが[→]、ここに示されている、源信を中心とする"横川の人々"が「今昔物語集」でどのように描かれているかを見ることで、編纂者の考え方が読み取れそう。

編纂者が源信に帰依しているとは、小生には思えないが、本朝の文化を、知の力で根底から形づくった人物と見なしていそうな気がする。

「今昔物語集」が天竺・震旦・本朝の記述になっているからで、それは、日本を重視したいがための3国記述スタイルでもなければ、西域・朝鮮半島・越南〜林邑を視野から除外したかったためでもないと思う。
3つの文化圏概念をそれとなく示しただけと見る。
(仏教と共に、震旦から様々な文化を取り入れたが、本朝だけは小中華帝国化しなかっただけと言えなくもないが。)
  天竺ベーダ経典教・細分階級重層統治国
  震旦宗族教・天子独裁官僚帝国
  本朝仏教・天皇統合ローカルコミュニティ国

中華帝国での、孔子から連綿とつながる儒者とは、基本的に葬礼専門家である。本朝の道徳中心の儒者とは全く異なる。何故に、儒者が重視されるかと言えば、"宗族祠"廟で祀るための式次第を知る人達だからだ。血族繁栄のため、言い換えれば、いつ何時一族が抹消されかねない社会のなかで生き残るために不可欠な祭祀を担当する人達ということ。
(ここらの"血族"や"宗族"の概念が理解できない人は少なくないが、残念ながら、それはいかんともし難い。祖先を敬うとか、家系図を大事にする話とは次元が違うからだ。第△代○○という名跡継承は、血族宗教からすれば言語道断と言われかねないとの論理がわかるか否かである。)
源信等の往生祈願は、本朝からこの手の観念を一掃する動きでもあった。それは大成功を収めたと言ってよかろう。
儒者的人々をも仏道に帰依させ、天子独裁の官僚支配国にはさせなかったのである。科挙の芽も摘んだと言ってよいだろう。(科挙は公務員試験とは違う。時の高官と繋がる予備校活動を経て合格すると、すぐに有力者との婚姻関係が結ばれ、どこかの血族所属となる仕組み。「酉陽雑俎」の著者は弊害のみの仕組みと見ていたようだ。官僚の仕組みを個人の精神生活に持ち込むからである。)

本朝の場合、仏教以前の統治は、地場豪族が合議で承継する天皇を決め、その下で天皇のご意向に沿うように物事を決める体制をとっていたと思われるが、中央権力が強くなるとこの仕組みがうまくいかなくなる。土着の氏族神あるいは氏寺が各地の祭祀の中心にいられなくなってしまうからだ。その空白を埋めたのが、往生信仰と言えなくもない。

受領随伴僧とはあくまでも守だけのためのお勤め役だし、国家鎮護の法事に携わる僧もそれに専念することになるが、阿弥陀仏信仰とは個々人の往生祈願信仰で性格が全く異なる。しかも、それは、僧俗、上下、男女すべてを包含する"講"を伴うから、各地の土着コミュニティの結集を促してしまう。氏子コミュニティが消滅し、土着の自律的コミュニティが生まれることになる。中央から来る受領層は、その上にのっかるだけでよくなる。

どうして、そのような方向に一気に進んだかといえば、源信が臨終行儀を示したから。
死の床に集まってくるのは、自他共に極楽往生を願う人々。死を見取ることも功徳であり、それは集まった人々に吉果をもたらす。そこにはローカルコミュニティの萌芽が見てとれる。
言うまでもないが、その原形は、"横川の人々"のネットワークでもある。

そんな運動の核が、横川首楞厳院の僧が結集した念仏結社であり、迎講@花台院と考えられる。
(この結社は、極楽往生のために臨終をどのように迎えるべきかを、先頭を切って示すためのものとも言える。先に逝った僧は、現世の僧に、転生したことを伝え、極楽往生の証拠を示そうとの取り組みでもある。名称は"三界六道二十五有"を突破する三昧行を意味しているのだろう。)
「今昔物語集」ではこの"二十五三昧会"に全く触れていないが、"横川の人々"の人となりと交流をそれとなく描くことでそれにかえていると考えることもできよう。
("二十五三昧会"を描けば文人貴族と比叡山エリート僧のクラブに映ってしまうこともあろう。)

例えば、法華経持経者で念仏を唱す。顔西尼の話も無関係ではなさそうなのだ。話は単純そのもので、山階寺僧 寿蓮威儀師の邪気払に経典を貸したところ家屋は焼失したがお経は残ったという霊験でしかないが、それが僧達のネットワーク活動を示しているともいえる。
  【本朝仏法部】巻十二本朝 付仏法(斎会の縁起/功徳 仏像・仏典の功徳)
  [巻十二#30]尼願西所持法花経不焼給語

  《二十五三昧会》
  慶滋保胤:「二十五三昧起請」986年
  源信:「横川首楞厳院二十五三昧起請」988年
  「横川首楞厳院二十五三昧式」
  「楞厳院廿五三昧結衆過去帳」1013年〜
   …根本結縁衆19名を含め、禅満からの51人で、祥蓮[987年没]〜覚超[1034年没]迄。
   うち、行状記載は5人。・・・

 源信 花山法皇 貞久 相助 良範@書写山
  他。・・・
 春久 明快 仁康 覚超 増賀 相如 厳久
 祥蓮@吉野[987年没][巻十七#31]  顔西尼
 鎮源(「法花験記」) 妙空 明普 念照 良陳 聖全 慶範 入妙 円救 等々。
(参照)高橋貢:「恵心僧都関係の説話について−法花験記と今昔物語を中心として−」国文学研究 26, 1962年

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