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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.2.12] ■■■
[227] 震旦浄土宗祖曇鸞
「今昔物語集」編纂者は、鋭い洞察力を持っていそう。
インターナショナルに俯瞰的に流れを見定める習慣ができているからだと思う。それがよくわかるのが、曇鸞譚の収載である。
曇鸞は、外道たる道教に傾いたが、新訳「観無量寿経」が浄土教に引き戻したとの話だが、宗教史的にどのように扱われているのか調べてはいないが、これはことの他重要。
と言うのは、中華帝国土着信仰の道教には不死の仙遷観が根底にあり、極楽往生観と親和性が高いからである。

どう記載されているか見ておこう。
  【震旦部】巻六震旦 付仏法(仏教渡来〜流布)
  [巻六#43]震旦曇鸞焼仙経生浄土語
   ⇒「三寶感應要略」中25 曇鸞法師得觀無量壽經生淨土感應
 曇鸞は四論宗の高名な学僧。
 「大集経」
(60巻)の注釈を書き下ろしていたところ、
 罹病で中断。
 死んでしまい仕事が無駄になるのはこまるので
 不老長生を求め、陶弘景に学ぶことにした。
 北から南へとはるばる旅をして
 到着すると歓待してもらえ
 仙経十巻を授かった。
 その帰路の途中、
 天竺帰りの翻訳僧、三蔵法師
菩提流支に出会った。
 曇鸞は、道教仙経の長生不死の法を大いに自慢。
 すると、菩提流支は言う。
   仙経は唾棄すべきもの。
   長生できるといってもヒトは必ず死ぬ。
   輪廻の世界に居続けるだけ。
 諭され、納得し、仙経を焼き捨ててしまった。
 そして、授けられた「観無量寿経」に帰依し、
 阿弥陀念仏による浄土往来を深く信仰するように。


「酉陽雑俎」的に言えば、服薬鍼灸等に関係する巻はしっかりと残して、検討したということになろう。それが、唐代のインテリ仏教徒の姿勢である。(病の診断なら、道士ではなく、それよりずっと地位が低い医師。しかし、こと治療になると、色々な方策があるといったところ。僧侶や道士に、深い知識を持つ人がいるからだ。白楽天が仙丹を服用してみたりする位で、そこらの判断は簡単にはいかない。)

本朝の極楽往生祈願の大きなうねりは、もちろん、この曇鸞に端を発するが、中華帝国でその流れを起こしたのは善導である。
しかし、「今昔物語集」編纂者は、取り上げていない。本朝的には、写経、読誦、念仏唱道、観想という善行を定式化したのだから本来的には高く評価すべきであるにもかかわらずだ。
と言うことは、その流れは、中華帝国ではインテリ層を虜にすることができなかったと見たからだろう。ポピュリズムに流れると、一挙に勃興もありうるが、底が浅いため大弾圧を喰らうのが関の山ということ。

以下に、震旦“浄土宗”系譜をまとめてみたが、比叡の横川に比類するのが、并州石壁山玄中寺ということになろう。その核が曇鸞。
ただ、宗教史的には、租は、結社を創設した慧遠と見なされているようだ。中華帝国では、政権にかかわらず、この流れは幾度も繰り返された。ほとんどの場合、弥勒による救済を掲げた“浄土宗”大衆運動であり、すでに原型は5世紀に出来上がっていたのである。
「今昔物語集」編纂者が、関寺再建の源信の一言[→]をどうしても収載したかった理由はここにあると見た。

《震旦“浄土宗”系譜》
[“涅槃宗”0](曇無讖)…訳出
  「大般涅槃經」
[“涅槃宗”祖]慧遠[334-416年 東晉]…念仏結社"白蓮社"@廬山東林寺
[“涅槃宗”2 鳩摩羅什門下四哲]道生, 慧観
[“涅槃宗”⇒“天台宗”吸収]
[0]菩提流支[n.a.-527年 北天竺])…訳僧@北魏洛陽
  「金剛般若波羅蜜経」
  天親/世親[撰述]:
  「無量寿経優婆提舎願生偈」⇒“浄土宗”経典
  「十地経論」⇒“地論宗”経典
[祖]曇鸞[476-542年 北魏]…@并州大巌寺・石壁山玄中寺
 浄土三部経に基づく教義樹立
  龍樹系四論
  天親/世親本の註釈書(「浄土論註」)
  「讃阿弥陀仏偈」
[2]道綽[562-645年 唐]…@玄中寺
 西向禪坐口唸佛號一日以七萬誦(唸珠は計算器)
[3]終南大師善導[613-681年]…@終南山悟真寺・長安光明寺
 称名念仏三昧を唱導
 「阿弥陀経」10万巻書写
 浄土曼荼羅300鋪描画
  「観無量寿経疏」
  「往生礼賛」、「般舟讚」
 [4-1“廬山慧遠流”]
 [4-2“善導少康流”]
 [4-3“慈愍慧日流”]
[_]彌陀承遠/南嶽承遠[712-802年]

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