→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2020.2.9] ■■■ [224] 源信物語 [4:気になる小瓶] 先ずは、臨終の際の雑念話。 【本朝仏法部】巻二十本朝 付仏法(天狗・狐・蛇 冥界の往還 因果応報) ●[巻二十#23]比叡山横川僧受小蛇身語 「死なむ時には、 儚き物をば取り隠して、 仏より他の物をば 見るべからず。」 ことさらに極楽往生を願う横川の聖人は 長年に渡り、阿弥陀念仏を唱えて来た。 法文の智もあるが、ただただ極楽往生ということなので 他の聖人も、皆、必ず実現すると思っていた。 罹病し、臥せ切りになり、念仏を唱えるのみになり、 臨終が近づくと、 枕元に阿弥陀仏を安置し五色の糸で繋ぎ 念仏を40〜50回唱えて静に入滅した。 死後、弟子が、酢入りの小瓶を見つけ、 開けてみると、そこには小蛇。 その夜、夢に聖人が出現。 「死ぬ直前、 この瓶が目に入ってしまった。 死後、この瓶は誰のものになるかと、 一瞬、気になったのである。 そんな執着心が生まれたので往生できず、 小蛇に転生してしまった。 往生できるよう供養を頼む。」 と言うのである。 本気なら、気が散る訳がないということ。 ここらは、「今昔物語集」編纂者がこだわっているところ。ハウ・ツウー往生マニュアルに沿って徹底的に善行を積んだところで、結果は保証されていないことを繰り返し指摘している。 悪行三昧に見える輩だろうが、ヒトとは皆凡夫でしかなく、所詮は五十歩百歩。心底から帰依すれば救われるという信仰の原点の裏返し的表現であろう。 ただ、信仰はあくまでも個人の問題ではあるが、阿弥陀仏帰依者のネットワークに参加することで、往生を保証してくれることになるとの考え方が濃厚である。それは、既存の教団組織とは違い、涅槃の結集に近く、参加者は結縁を結ぶことで、互いに師弟・弟師となることができる訳だ。 【本朝仏法部】巻十二本朝 付仏法(斎会の縁起/功徳 仏像・仏典の功徳) ●[巻十二#34]書写山性空聖人語 [→性空聖人] 「世に法を説くべき僧多しと云へども、 聖人、我れをしも最後の講師に呼びたるをなむ、 我が後世は憑もしと思えて、 "前の世に何なる契を成したりけるにか有りけむ。" と思ゆる也。」 性空聖人から最期の時の講師に呼ばれた。これで後世、確実に導かれると確信できた。同時に、前世の契がどうだったか大いに感じ入ったのである。・・・ しかし、阿弥陀仏の極楽浄土への転生一途の信仰者であっても、弥勒菩薩信仰には理解を見せている。 弥勒菩薩をご本尊とする関寺再建に尽力したからだ。ただ、後世にご本尊造像は遺言で終わってしまい、後世に実現されたのである。 阿弥陀仏だけに拘っている訳ではないことがよくわかる。 ●[巻十二#24]関寺駈牛化迦葉仏語 [→逢坂山越の寺] [→弥勒菩薩] 「此れ、何で本の如くに造り立てむ。 止事無き仏の跡形も無くて坐するが、極て悲き也。 就中に、此の如く関の畢に坐する仏なれば、 諸の国に人、礼まぬ無し。 "仏に向ひ奉て、暫くも首を低たる人そら、 必ず仏に成るべき縁有り。 何に況や、掌を合せて、 一念の心を発して礼む人は、 必ず当来の弥勒の世に生るべし。" と釈迦仏説き置き給へる事なれば、 仏の御法を信ぜむ人、此れを疑ふべきに非ず。 此れ、至要の事也。」 この姿勢は、他の浄土より極楽浄土が最上位で最終的なものという思想に、末法意識が被って来たことを示すと言えよう。弥勒仏による救済を掲げる大衆運動の思想的萌芽ということ。一見、ローカルな話に映るが、インターナショナルな動きそのもの。 (C) 2020 RandDManagement.com →HOME |