→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2020.2.17] ■■■ [232] 善行者の堕地獄 そのなかで、いかにも仏教という感じがする話がある。当人には、いかにも善行だけ積んできた印象があるにもかかわらず、地獄行なのだから。ソリャー、地蔵菩薩に説得してもらわねばという気持ちにもなろう。 言うまでもなく、現生での悪行の報いでの結果という訳ではなく、前世での悪行の因果応報だということ。こればかりは、それを知ってその分に相当する善行を積まねばならないのだから、前世を知らない限りどう努力してもどうにもならない訳だ。 【本朝仏法部】巻十七本朝 付仏法(地菩薩霊験譚+諸菩薩/諸天霊験譚) ●[巻十七#17]東大寺蔵満依地蔵助得活語 ●[巻十七#18]備中国僧阿清衣地蔵助得活語 ●[巻十七#19]三井寺浄照依地蔵助得活語 この手の話はこれだけではない。 つまり、「今昔物語集」編纂者としては、かなり重要視していることになろう。 そのおかげで、読む方としては、思わず、う〜む、と脳細胞が螺子くられる気分におち入ることになる。 なんだ、いくら心底極楽往生を願っても、前世に罪を負っているならどうにもならないのか、と解釈するしかないからだ。どうも、ここらがどうなっているのか、よくわからない訳である。 マ、宗教であるからナンデモありで、そんなことを気にすべきではないとしたいところだが、「今昔物語集」は明らかに宗教書ではないから、どういう意味があるのかついつい考えてしまう。 と言うことで、見ておこう。 ●[巻十七#20]播磨国公真依地蔵助得活語 ●[巻十七#22]賀茂盛孝依地蔵助得活語 ●[巻十七#29]陸奥国女人依地蔵助得活語 ⑳ 播磨印南歌見ノ浦の極楽寺@加古西二見の僧公真は、 三尺綵色の地蔵菩薩像を造って安置。 日夜恭敬。・・・ しかし重病にかかり死んでしまった。死後、閻魔庁に到着。そこは、ひどい責め苦で泣き叫ぶ罪人の声が雷のよう。そこに小僧が現れ汝の父 重正が造像し開眼供養をしてくれたので、汝も助けてやろうと告げ、門外に連れ出してくれた。人間界で深く三宝を敬って善行いすべしと言われた途端に蘇生。その後、公真は発心。地蔵菩薩造像の上、日夜供養し奉った。それが極楽寺の地蔵菩薩像。 ㉒ 賀茂盛孝は素直で賢く、公私ともに順調で、家は豊か。 慈悲の心で接するし、生類殺生もしない。 信心深く、心深くして、毎月24日は精進潔斎の仏事。 特に、地蔵菩薩を念じ奉っていた。 そうこうするうち、沐浴直後亡くなってしまい 真っ逆さまに穴に墜ちて行った。 その間、猛火の炎を目にし 泣き叫ぶ声を耳にし、 四方は揺れ動き、雷が鳴る状態。 盛孝の心は乱れ、肝っ玉は砕けてしまい 大声を出して泣き悲しんだがどうにもならない。 ついに、高楼の官舎に到着。 すると、沢山の検非違使・官人等が東西に並び始めた。 周囲には見知った人は一人もいなかった。 ただ、とても端厳な小僧が一人居て、歩いてやって来た。・・・・ と言うことで、閻魔庁で地蔵菩薩の慈悲にすがり閻浮に返して欲しいと。すでに刑が確定していたので地蔵が身代りに。そのお蔭で蘇生し、剃髪出家入道に。三宝に帰依し、ますます地蔵菩薩を念じ奉った。 ㉙ 陸奥の恵日寺@会津磐梯山南西は 興福寺の入唐僧 得一/徳一菩薩[n.a.-843年]が建立@807年。 平将行の三女の尼がこの寺の傍らに住んでいた。 美麗で心柔和で、結婚を避けていた。 しばらくして、罹病。 長く煩い、死去。 (おそらく、大殺生武人の家人ということでの罪業のため、) 冥土に。 そこは罪人だらけ。 罪状軽重勘案の時、錫杖を持つ端厳な小僧があらわれた。 庭にいた罪人達は言う。 「地蔵菩薩来たり。」 「人身難受。仏教難値。一心精進。不惜身命。」 「極楽の 道のしるべは 我が身なる 心ひとつが なほきなりけり」 と言うことで、地蔵菩薩に救われ、出家し如蔵尼に。信仰を深め世人から地蔵尼と呼ばれた。 享年八十余。 (C) 2020 RandDManagement.com →HOME |