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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.3.13] ■■■
[257] 多田院御家人祖源満仲
源満仲/満慶[912-997年]は《清和源氏》六孫王経基[n.a.-961年]の嫡男で多田源氏の祖[→系図@源義家]

この程度の記載ではプロフィールが想像しにくいが、もともとは、受領を次々と拝命した富者だった。その力をもとに、京の貴族として、"兵"集団の長として権勢をふるったと見てよさそう。
しかし、その後、京から離れた地、多田で、血縁による組織統制の下、大勢の郎党を養い、武士勢力を編成して頭領として君臨したということ。
政敵の仕業と思われる放火被害を受けたこともあり、中央政治風土とは異なる武家風土を確立することに注力したとも言えよう。

伝987年、多田の邸宅で郎党16人・女房30余人と共に出家したとされる。この家屋が、後の多田院@川西多田院多田所であり、墓所にもなっている。
 摂津守源満仲創建(開山:末子 源賢)
  本尊丈六釈迦仏の願主:満仲
  文殊菩薩の願主:長男 頼光
  普賢菩薩の願主:次男 頼親
  四天王の願主:三男 頼信


こうした状況を踏まえ、出家譚を読むと収載の意味がわかってくる。
  【本朝仏法部】巻十九本朝 付仏法(俗人出家談 奇異譚)
  [巻十九#_4]摂津守源満仲出家語
 円融院の天皇代。
 筑前守基経の子、左馬頭 源満仲は世に並び無き兵と言われていた。
 そんなことで、皆、重用していた。
 しかも、水尾天皇にも近しいので、、
 長年に渡り、様々な国司を拝命し、圧倒的な富豪になり
 多々
/多田に家を建てて、籠居していた。
 子供は沢山いたが、皆、兵の道に進んだ。
 ただ、例外的に比叡山の僧になった者がおり、
 飯室 深禅僧正の弟子で、源賢と呼ばれていた。
 父の殺生の罪を見て、歎き悲しみ、横川の源信僧都を詣で
 考えていることを語った。
 「父は60才になり、残りは幾ばくもない。
  飼鷹を40〜50羽も繋ぎ、夏は大量殺生。
  河では簗猟で大量漁獲。海でも網で捕獲。
  山では郎党に鹿狩りをさせ続けている。
  ・・・」
 こんな状態では、出家すべしとは
 とても言い出せない、と言う訳だ。
 源信は、全くその通りだが、
 一人で対応できる問題ではないから、
 覚雲阿闍梨、院源君等と共に動いてなんとかしようと応えた。
 招請されて、山から下りるような方々ではないが、
 事は重要ということで、
 箕面の御山参詣のついでと称し、
 源信の呼びかけに応えて摂津まで行くことに。
 三聖人来訪ということで喜んだ源満仲は
 法会の準備万端を整えていた。
 そして、当日、
 院源の説法を聞いて号泣し、すぐに出家を決意。
 しかし、得度の日は後日にした。
 源信僧都達は道心を高めるための行事を考えていたのである。
 その日は、西山から、菩薩装束の行列が来訪。
 笛・笙を吹く10人ほどの樂師を歩かせた。
 来迎とはこのようなものと聞かされ、
 源満仲はその荘厳さに感動を覚え、大声で泣き、
 屋敷の板敷から転がるように庭に出た拝んだ。
 そして、余生を仏道修行にあてることに。
 多田に寺院を建立したのである。


単なる出家話と言えばその通りだが、よくよく考えると、「今昔物語集」編纂者の渾身の作品でもある。芥川龍之介がとりあげてくれなくて残念至極。
もっとも、誰でもがそう感じる手の話ではない。
「酉陽雑俎」では、飼鷹の薀蓄話に一巻をあてているが、その理由を直観的にわからないと、この辺りはいかんともし難い。(鷹は猛禽。しかし、飼い主に危害を与えたりはしない。と言って、幼鳥から飼っても、懐くことはない。100%肉食なので、餌を切らせば死んでしまう。)
編纂者は実に周到で、源満仲は並び無き兵とだけ書いているが、その根拠には全く触れていない。源満仲にとって鷹狩が"兵"の重要イベントであることがわかる読者だけを想定していると見てもよかろう。
この譚を、老武士が心を入れ替え、殺生の罪を懺悔するために出家した話として読むな、と言っているようなもの。

源満仲の郎等の話も収載されている。
こちらでは、"兵"とは、"殺生"で力を磨くことこそが"道"心であることが示唆されており、上記の出家譚の背景がわかるようになっている。

武士であるから殺生三昧の不信の者であり、およそ善行とは無縁。ところが、些少ながらも善根があり、それを機縁として、地蔵菩薩の大慈悲に預かれたというストーリー。
  【本朝仏法部】巻十七本朝 付仏法(地蔵菩薩霊験譚)
  [巻十七#24]聊敬地蔵菩薩得活人語
 源満中朝臣は武芸の道に通じ、勇猛。
 朝廷・貴族から公私ともども、比類なきほど重用された。
 その郎等で勇猛な者がおり、殺生をなりわいとしており、
 善根を造るなどということとは全く無縁。
 ある時、野に出て鹿狩。
 鹿が出て来たので、射ようとしたが、走って逃げられてしまった。
 そこで、馬を馳せて追跡。
 途中で寺の前を通過。
 一瞬、寺内に目をやると、そこには地蔵菩薩像。
 わずかに敬う心が生まれ、左手で笠を脱ぎ、駆けて通り過ぎた。
 その後、たいした時も経ずに、その郎党は罹病。
 しばらくして死んでしまった。
 たちまち冥土に。そして、閻魔大王の御前へと。
 庭を見廻すと罪人だらけ。
 そこでは、罪の軽重を定め罰を与えていたのである。
 それを見て、目は暗くなり、心は迷い、悲しむ一途。
 「我、一生、罪業のみ造り、善根の修などなにもない。
  そうなると、罪を逃れる方策はなにもない。」
 と思って嘆いていたが、
 そこに、端厳な小僧が出てきて話しかけて来る。
 「我は、汝を助けようと思っている。
  汝はすみやかに本国へ返り、
  長年に渡って造る罪を懺悔せよ。」
 と言うのだ。
 これを聞いて喜んでしまい、小僧に尋ねた。
 「我を助けて下さるお方は何方様で
  何故でございましょうか?」
 「汝は、我を知らないのか。
  我は、汝が鹿を追って馬を馳せて
  寺の前を通った時、一瞬見た地蔵菩薩であるぞ。
  汝の長年に渡る罪は極めて重いが
  一瞬ではあるものの、我を敬う心をおこし笠を脱いだ。
  その心に免じ助けるのである。」
 そして、生き返えることができた。
 男は妻子に語ったところ、ひたすら感涙。
 そして、道心を発し、以後殺生を永久に断ち、
 地蔵菩薩を日夜に念じたのである。


ついでながら、この譚は極めてインターナショナルなセンスで貫かれている。天竺-震旦-本朝の文化の違いが透けて見えるからだ。・・・本朝の"兵"の精神性はあくまでも個人レベル。それが磨き抜かれて初めて集団への帰属感が生じ、その律を遵守することに。逆ではない。

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