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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.4.13] ■■■
[288] 壬生良門
陸奥国の壬生良門と空照聖人が「今昔物語集」に登場するが、系譜には触れていないのでその素性は不明。

しかし、壬生良門という名前は秩父 定林寺(秩父三十四箇所#17)の開基ということで一部では知られていた。巡礼者ぞ知るお寺ということではなく、ハイキングガイドの周辺情報として、目にすることが少なくなかったからだ。さらに、現代アニメにも登場したところから、大勢の若者が拝観に訪れるようになっているらしい。

これを知っていると、「今昔物語集」編纂者は、このお寺の存在を知りながら、あえて"陸奥国"としたのではないかという疑念が湧いてくる。
と言うのは、壬生氏を知らない筈がないからである。
慈覚大師の俗称は壬生の氏で、下野 都賀の人で、誕生時に紫雲が棚引き家を覆ったと記載しているからだ。[→円仁入唐物語]

何故に、良門の出自に触れたくないかと言えば、平将門の遺児との伝があるからだろう。小生はこれは創作ではないと見る。各地の首領の家を廻って、その娘と婚姻関係を結んだからこそ、権力を握ることができた筈だからだ。

そのもともとの壬生/乳部氏の出自は古い。推古朝の頃の部民だそうで、おそらく蘇我対抗渡来系一族だったのだろう。壬生吉志が武蔵国分寺七重塔を再建したと史書に記載されているから、東国で一大勢力を築いていたと見て間違いなかろう。
壬生良門が陸奥で活動している筈がない。

さて、その定林寺の開基譚だが、だいたいのところは、このように伝わっているようだ。・・・
 壬生良門は家臣の林太郎定元に諌められ激怒。
 打ち首にはしなかったが、家財没収の上、追放。
 縁のある、秩父に流れたが、夫婦はすぐに没。
 遺児は僧 空照に育てられ、菩提を弔った。
  
(おそらく、持寺で、観音堂ができたのだろう。)
 壬生良門がこの地を狩で訪れ、聡明な僧に会い
 その来歴を知り、林太郎定元墓の地に寺を創健。


それでは、「今昔物語集」ではどう記載されているか見てみよう。
  【本朝仏法部】巻十四本朝 付仏法(法華経の霊験譚)
  [巻十四#10]陸奥国壬生良門棄悪趣善写法花語
 陸奥に住む壬生良門は勇猛で、弓矢を常に持て弄び、
 人を打倒し、鳥獣殺戮を仕事としていた。
 夏は川で漁獲、秋は山で鹿の狩猟と
 季節に従って罪を積み重ねた年月を過ごしていた。
 丁度その頃、知恵があり仏道心が深い空照聖人が居り
 壬生良門の悪心が強くて、罪業ばかりつくっており、
 三宝を顧みない姿勢を見て、慈悲の心を覚え、
 教導しようと、つてを得て、良門の家を訪問。
 良門は聖人に会うと、来訪して来た理由を訊ねた。
 聖人は、
 「入り難く、出易きは人間界。
  入り易く、出難きは三途。ま
  たまたま人間界に生まれても、仏法に出会うことは難しい。
  罪をつくった者は必ず悪道に堕ちる。
  このことすべてじゃ仏説。
  汝は、殺生や勝手気ままな行為を止め、
  慈悲・忍辱の心を持つように。
  速やかに財産を投げ打ち、功徳を積みむべし。
  財産は、いつまでも身についているものではないからだ。」
 と教示。
 これを聞いた壬生良門は、
 前世の因縁からなのか、たちまち道心を起こした。
 悪心を棄て、善心を抱くようになったのである。
 弓矢を焼き棄て、殺生の道具も打ち砕き、後殺生を断ち、
 仏法を信仰したのである。
 そして、すぐに法華経のに金泥書写を行い、
 黄金の仏像を造像し、心を籠め供養。
 さらに、仏道心がますます強くなったので、
 願を立て、
 「我は、今生において
  金泥の法華経千部を書き奉じる。」
 と誓い、長年貯えた財を投げ出し、金を買い求め、
 10年以上かけて法華経千部の金泥書写を行い、供養した。
 その供養の場には、
 白い蓮華が空から降ってきたり、
 音楽がお堂の中から聞こえてきたりした。
 端麗な童子が花を捧げて現れたもしたり、
 見知らぬ鳥がやって来て鳴いたり。
 さらに、夢に、天人が現れ、手を合わせて礼拝。
 実に不思議なことがおきた。
 良門は、臨終を迎えると沐浴精進。
 おそばの人に言った。
 「数多くの天女が音楽を奏でて、空から下って来た。
  我は、その天女に連れられ、兜率天に昇る。」と。
 そして、合掌し端座した状態で亡くなった。


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