→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2020.5.16] ■■■ [321] 新羅での敵国調伏法 藤原氏が単なる受領から武家の領域にまで進出した先鞭をつけた人物である。 ここでは、征夷ということで新羅国に出兵しようとしていた矢先、途中の山崎で病死してしまうという話。 【本朝仏法部】巻十四本朝 付仏法(法華経の霊験譚) …(#29-45は緒経霊験譚) ●[巻十四#45]依調伏法験利仁将軍死語 この時代、北海での新羅入寇もあったようだし、関東以北の蝦夷独立集団平定も急務で、この統治上の大問題対処には、「心猛くして、其の道に達せる者」を活用する以外に手がないという状態だったのだろう。 そこで、利仁に白羽の矢が立ったということか。 もともと、係累が北陸で力を持っていたため、越前敦賀を拠点として北海航路利権を一手に押さえ、膨大な富を蓄積し、強大な北陸武士団を従えていたと見てよさそうだ。 文徳天皇代[850-858年]。 日本の属国とされていた新羅国が独立の動き。 大臣・公卿の衆議の結果、討伐することに。 そこで鎮守府将軍 藤原利仁を派遣軍の長に任命。 勇敢で、戦軍の道の熟達者なので、仰せを承って勇猛に出立。 大勢のの剛勇の将士達を、無数と言えるほど多くの船に乗せた。 新羅国はそんなことはご存知ないが、 様々な異変が生じたので、占わせると 外国の軍勢が攻め寄せて来るとのお告げ。 国王、大臣、公卿は驚き、 「攻められると、とうてい太刀打ちできない。 ここは、ただ三宝の霊験に深く頼むしかあるまい。」との方針に。 その頃、大宋国には 恵果和尚御弟子で真言密教の修法を学び伝えている 法全阿闇梨という尊い聖人がおられた。 そこで、国王は招請し、調伏法を執り行った。 丁度その頃、若かりし、三井寺の智證大師(円珍)が 入宋しており、法全阿闇梨から真言を学んでいた。 そこで、大師も師の供で、新羅に渡った。 しかし、阿闇梨が日本国調伏のために招かれたとは露知らず。 その、調伏法の7日目の満願日のこと。 修法壇上に大量の血が流れていた。 それを見た阿闇梨は、修法の験と見なして 終了して本国に返ったのである。 利仁将軍の方と言えば、 出発しようとしていたが、山崎で病気になり床に臥してしまった。 ところが、突然、起き上がり走り出し、空に向かって太刀を抜いて、 躍り上がり躍り上がりなどして、斬りつけていたが そのうち倒れて死んでしまったのである。 そんなことがあったので、新たな派遣軍の長は任命されず、 討伐は行われなかった。 その後、智證大師は帰朝。 新羅国に渡った時の話を聞いて、 利仁将軍死去は調伏法の験だったことがわかったのである。 外寇からの防衛や敵国降伏を祈願する真言修法の"調伏法"とは大元帥法のこと。本朝では、初期は、宮中真言院だけで「後七日御修法」が行われていたと伝わる。(現在は東寺で1月8日に行われている。) ちなみに、蓮舟律師灌頂ノ弟子で法琳寺命藤内供弟子である、真言宗の律師泰舜は、「大元法」修々中"壇上血流悉地成就相也"。[「真言傳」巻五律師泰舜]…真言宗、比叡山(明達,浄蔵)、東大寺羂索院、醍醐寺五大堂で将門調伏を競っていた頃の話である。 《法全阿闇梨の系譜》 ○惠果[746-806年] ├┬┐ ││○惟上、玫臺、操敏、堅通 ││《恵果六大弟子》 │├○惟上@剣南…灌頂師 │├○義圓@河北…金剛界 │├○慧日@新羅 │├○辨弘@訶陵…胎蔵界 │├○義明@青竜寺 │└○空海@日本…両界 ○義操 ├┬┐ ││○大遇@崇福寺、深達@景公寺、海雲@淨住寺、從賀@醴泉寺 ││ 文苑、法祕、均諒@新羅 │○法潤@青竜寺 ○義真@青竜寺 ├┘ ○法全@玄法寺⇒青竜寺…「玄法寺儀軌」「青竜寺儀軌」 │《本朝入唐僧》 ○宗叡、円仁、円珍[814-891年]、遍明 (C) 2020 RandDManagement.com →HOME |