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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.5.21] ■■■
[326] 震旦法花経霊験
震旦部巻七は般若経霊験12譚(#1-12)から始まり、無量義経霊験話(#13)までが、巻六に引き続いた「三寶感應要略」の話。[→]
ここからが、震旦の法花経霊験話連続19譚(#14-32)。ここでの引用主体は「冥報記」。
その後は欠文になっており、巻末の8譚は種々の霊験になるが、これも「冥報記」から。

成程、そういうことか、感あり。

この書は、他書から引いてきて編纂した書ではない。「酉陽雑俎」でも多用されているが、例えば親類に直接取材して得た情報をまとめたりしたもの。自らの判断で事実と認定した話を収録しているのである。ただ、「酉陽雑俎」の場合は、著者の現実直視の姿勢を示したものだった。美文を書く、当代の一の知識人と見なされていた文官だが、インターナショナルな自由精神を愛したから、そのような情報を平易な言葉で伝えることに大きな意義を感じていたからだろう。おそらく金剛般若経読誦を日課とする在家仏教徒なので、官僚統治を支えるための儒教はある程度賛同はするものの、反儒教的である。

しかし、「冥報記」の著者は、親儒教のようだ。と言うか、儒教に仏教を習合させたいのかも。
これぞまさしく、震旦の風土を示しているといえよう。因縁論が語られているが、そこには儒教の因縁論と相互浸透しつつある思想が見え隠れしている気がする。
「今昔物語集」の編纂者はそれに気付いたのではなかろうか。
「酉陽雑俎」の著者が、仏教は中華帝国から駆逐される可能性を感じたのと、同じセンスかも。
そうとらえると、「今昔物語集」の構成を天竺-震旦-本朝の三部作にした意味は極めて大きい。大乗仏教が土着の伝統信仰と共に残っていくのは、本朝しかないかもと感じていた可能性があるからだ。

そういう観点に立つと、「冥報記」の"序"は必読かも。そこから、巻七の真意が見えてくるし、震旦の"孝行"巻を設定した意味もわかってくるからだ。

 「冥報記」"序"
夫含氣有生,無不有識;有識而有行,隨行善惡而受其報,如農夫之播植,隨所植而收之。此物之常理,固無所可疑也。
上智達其本源,知而無見;
下愚闇其蹤跡,迷而不返,皆絶言也。
中品之人,未能自達,隨縁動見,遂見生疑,疑見多端,各懷異執;
釋典論其分別,凡有六十二見,邪倒於是乎生者也。臨在中人之後,幸而悟其萬一,比見衆人不信因果者,説見雖多,同謂善惡無報。
無報之説,略有三種:
 一者「自然」:言故無因果,唯當任欲待事而已。
 二者「滅盡」:言死而身滅,識無所住;身識都盡,誰受苦樂?以無受故,知無因果。
 三者「無報」:言見今人有修道コ,貧賤早死;或行凶惡,富貴靈長。以是事故,知無因果。

要するに、反仏法者とは因果を信じない人達であり、3カテゴリーに属すというのである。・・・
 1「自然」…因果応報を考える要なし。
   欲するままに生活し、時々の状況に対応するだけ。
 2「滅盡」…死ねば肉体は消滅し、意識の存在根拠も無くなる。
   応報の受け手はいない。
 3「無報」…正しい行いが果を得ているとは思えない。
   悪人の富貴長寿は少なくない。


「今昔物語集」編纂者はここらが大いに気になったに違いないのである。
儒教の特徴は、来世に繋がる因縁観が違うからだ。現世で善行を積んでも、その果は場での即効果か、遅延して顕れるという現世利益一点張り。上記は、一見すると、そのような見方ではなさそうに見えるが、そのセンスはいかにも儒教的。
特に注意すべきは、儒教の因果には子孫という血族観念が埋め込まれること。親の因果は子々孫々まで受け継がれるのであって、祖先の恥は子々孫々まで、それを贖う義務を背負うという観念の根拠でもある。仏教はこれを否定する宗教な筈だが、「冥報記」の著者はそれを習合させようとしているのでは。

だが、「今昔物語集」編纂者は、こうした著者の態度を高く評価したようである。震旦の風土を考えればそうならざるを得まいということで。
そして、もう一つ、評価している点がありそう。それは、著者が、イの一番に、自分は"中人之後"と述懐しているところ。ご高説を垂れる訳でもないし、権威ある経や論から一節を引こうという気もないからだ。自らの感性でまとめていこうとの強い意志を感じたに違いなく、シンパシーが生まれておかしくなかろう。

お互い、説法の話題提供用オムニバス的説話集を提供するつもりなどないからだ。

個々の話はそのうち。
 【震旦部】巻七震旦 付仏法(大般若経・法華経の功徳/霊験譚)
  《1-12 般若経霊験》
  《13 無量義経霊験》
  《14-32 法花経霊験》
   釋非濁[n.a.-1063年][撰述]:「三寶感應要略
   #1-9, 11-12…般若経霊験↑
   #13…無量義経霊験↑
   #14, 22, 23, 24
   慧祥[撰]:「弘贊法華傳」
   #10…般若経霊験↑
   #15, 16, 17, 20, 21
   唐臨[撰]:「冥報記」650-655年
        …円行が入唐[834〜848年]し持ち帰った唐写本(日本にのみ残存)

   #18, 19, 25, 26, 27, 28, 29, 30, 31
   #41-48…諸々霊験↓
   不詳
   #32
   (尚、上記に加え、僧祥[撰]:「法華伝記」を加えることもあるようだ。
     「弘賛法華伝」と同時代性が濃厚な法華経霊験集である。)

  《33-40 推定…観普賢経霊験》
   #33-40 (欠文)
  《41-48 諸々霊験》

[巻七#14]震旦法花持者現脣舌語
⇒「三宝感応要略録」中63
     誦法華經滿一千部女有靈驗感應
齊武成世。并州東看山側有人。掘地見一處土。其色黄白。尋見一物。状如人兩脣。其中有舌。鮮紅赤色。以事聞奏。帝問道俗等。無能知者。沙門大法師上奏曰。此持法花者六根不壞報耳。誦滿千遍。其必驗矣。乃集持法花者。圍繞誦經。纔始發聲。此靈脣舌。一時鼓動。聞見毛竪。以事奏聞。詔遣石函。藏之遷于室矣。

[巻七#15]僧為羅刹女被乱依法力存命語
⇒慧祥[撰]:「弘贊法華傳」卷第六#2
     外國山居沙門
昔外國山寺。有年少比丘。毎誦法華。甞於寺外經行。遇羅刹女。鬼變為婦人。甚好姿首。來此比丘。比丘被惑。遂與之通。通後。精神恍忽。無所覺知。鬼負之飛行。欲還本處規將。於夜前分。從一伽藍上過。比丘在鬼上。聞伽藍中有誦法華經聲。因即少醒。憶已所習。乃心暗誦之。鬼便覺重。漸漸近地。遂不能勝。棄之而去。比丘少時醒寤。聞有鐘聲。即尋聲到寺。扣門求進。具陳本末。然計去其郷。已二千餘里。諸僧云。此人犯重。不可同止。有一上座云。此鬼神所惑。非是自心。既得脱免。顯經威力。可留住寺。令其懺悔。後遇彼郷信。乃發遣之。

[巻七#16]震旦定林寺普明転読法花経伏霊語
⇒慧祥[撰]:「弘贊法華傳」卷第六#7
     宋高逸釋普明
釋普明。姓張。臨渭人。少出家。稟性清純。視不過歩。蔬食布衣。以懺誦為業。三衣繩床。未甞遠體。若欲消息。坐而假寐。誦法華維摩二經。及諷誦之時。有別衣別座。未甞穢雜。毎至勸發品。輒見普賢乘象。立在其前。誦維摩經。亦聞空中唱樂。又善神呪。所救皆愈。有郷人王道真。妻病。請明來呪。明入門。婦便悶絶。俄見一物如狸。長數尺許。從狗竇出。因此而愈。明甞行水旁祠。巫覡自云。神見之。皆奔走。後遇疾。正坐燒香。不覺便逝。即宋孝建中卒。春秋八十五矣。

[巻七#17]震旦会稽山弘明転読法花経縛鬼語
⇒慧祥[撰]:「弘贊法華傳」卷第六#12
     齊柏林寺釋弘明
釋弘明。本姓。會稽山陰人也。少出家。貞苦有戒節。止山陰雲門寺。誦法華經習禪定。精勤禮懺。六時不輟。毎旦即水瓶自滿。實諸天童子。以為給使也。明。甞於雲門坐禪。虎來入明堂内。伏于床前。見明端然不動。久之乃去。又時。見一小兒。來聽明誦經。明曰。汝是何人。答云。昔時此寺沙彌。盜帳下食。今墮中。聞上人道業。故來聽誦。願助方便使免斯累也。明即説法勸化。領解方隱。後於永興石姥巖入定。又有山精來惱明。明捉得。以繩繋之。鬼遜謝求脱云。不敢復來。乃解放。於是絶迹。元嘉中。郡守平昌孟。重其貞素。惡明出新安。止道樹精舍。後濟陽江齊之。於永興邑。立昭玄寺。復請明往住。大明末。陶里董氏。又為明。於村立柏林寺。要明還止。訓勗禪戒。門人成列。以齊永明四年。卒於柏林寺。春秋八十有四。

[巻七#18]震旦河東尼読誦法花経改持経文字語
⇒「冥報記」上四
     練行尼
河東有練行尼,常誦《法華經》。訪工書者一人,數倍酬直,特為淨室,令寫此經。一起一浴,燃香梭゚。仍於寫經之室,鑿壁通外,加一竹筒,令寫經人毎欲出息,遣含竹筒,吐氣壁外。寫經七卷,八年乃畢。供養嚴重,盡其恭敬。
龍門僧法端,常集大衆講《法華經》,以此尼經本精定,遣人請之;尼固辭不與,法端責讓之,尼不得已,乃自送付。法端等開讀,唯見黄紙,了無文字;更開餘卷,皆悉如此。法端等慚懼,乃送還尼;尼悲泣受,以香水洗函,沐浴頂戴,遶佛行道,於七日七夜,不暫休息;既而開視,文字如故。(貞觀二年,法端自向臨説。當具説尼名字,臨忘之,唯記其事云爾。)


[巻七#19]震旦僧行宿太山廟誦法花経見神語
⇒「冥報記」中十三
     宿太山廟客僧
  隋大業中,有客僧,行至太山廟,求寄宿,廟令曰:「此無別舍,唯神廟廡下可宿;然而,比來寄宿者死。」僧曰:「無苦也。」令不得已,從之,為設床於廡下。
僧至夜,端坐誦經,可一更,聞屋中環珮聲,須臾神出,為僧禮拜,僧曰:「聞比來宿者多死,豈檀越害之耶?願見護之。」神曰:「遇其死時將至,聞弟子聲,因自懼死,非殺之也,願師無慮。」僧因延坐,談説如人。
良久,僧問曰:「聞世人傳説,太山治鬼,寧有之也?」神曰:「弟子薄福,有之;豈欲見先亡乎?」僧曰:「有兩同學僧先死,願見之。」神問名,曰:「一人已生人間;一人在獄,罪重不可見,與師就見,可也。」僧甚ス,因共起,出門不遠而至一所,多見廟獄,火光甚盛。神將僧入一院,遙見一人在火中,號呼不能言,形變不可複識,而血肉焦臭,令人傷心,此是也。
僧不複欲歴觀也,愁求出。俄而至廟,又與神同坐,因問:「欲救同學,有得理耶?」神曰:「可得耳,能為寫《法華經》者,便免。」既而將曙,神辭僧入堂。旦而,廟令視僧不死,怪異之,僧因為説。仍即為寫《法華經》一部,經既成,莊嚴畢,又將《經》就廟宿。其夜,神出如初,歡喜禮拜,慰問來意,僧以事告。神曰:「弟子知之。師為寫經,始盡題目,彼已脱免;今久出生,不在也。然此處不淨潔,不可安經,願師還送經向寺。」言説久之,將曉,辭而去,送經於寺。(杭州別駕張コ玄,前任州,具知其事,自向臨説云爾。)

現世と冥界間の往来、自由自在。

[巻七#20]沙弥読法花経忘二字遂得悟語
⇒慧祥[撰]:「弘贊法華傳」卷第六#17
     秦郡東寺沙彌
釋某。失其名。住秦郡東寺。有一沙彌。誦法華甚通利。唯到藥草喩品。靉靆二字。隨教隨忘。如是至千。師苦責之曰。汝誦一部經。熟利如此。豈不能作意憶此二字耶。師。夜即夢見一僧。謂之曰。汝不應責此沙彌。沙彌。前生在寺側東村。受優婆夷身。本誦法華一部。但其家法華。當時藥草喩品。白魚食去靉靆二字。于時經本無此二字。為其今生新受。習未成耳。其姓名某。經亦見在。脱不信者。可往驗之。師明旦就彼村。訪問此家。言畢。問主人云。有可供養處不。答曰。有之。問曰。有若為經盡。答云。有法華經一部。師索取看。藥草喩品。果缺二字。訪云。是大兒亡婦。生存受持之經。計亡。已得一十七年。果與此沙彌。年時胎月相應也。自後頻移歳稔。始得精熟。不知所終。

[巻七#21]豫州恵果読誦法花経救厠鬼語
⇒慧祥[撰]:「弘贊法華傳」卷第六#8
     宋瓦官寺釋慧果
釋慧果。豫州人。少以蔬苦自業。宋初。遊京師。止瓦官寺。誦法華十地。甞於廁前。見一鬼。致敬於果云。昔為衆僧。而作維那。小不如法。墮在糞鬼中。法師コ業高明。又慈悲為意。願助以拔濟之方也。又云。昔有錢三千。埋在柿樹根下。願取為福。果即告衆掘之。實得三千。為造法華一部。并設中會。後夢見此鬼云。已得改生。大勝昔日。果以宋大始六年卒。春秋七十有六。

[巻七#22]瓦官寺僧恵道活後写法花経語
⇒「三宝感応要略録」中64
     書寫法花經滿八部必有救苦感應
宋瓦官寺沙門惠道豫州人。釋惠果同母之弟也。生不修行業。但善於興販。當衆倉厨私自食用。知鋤蝠便割盜。後遇疾而死。三日蘇云。吾冥官被驅。向幽遠路。有沙門謂道曰。王若推問。應作是言。我昔有造法花八部願。數授此言已。忽然不見。即至王所。王問。修何功コ。答吾有造法華經八部願。王咲曰。既云有願。若造法花及八部者。必脱八獄。依此一言。還放人間。説此因縁。捨所有造八部。其經見在矣。

[巻七#23]震旦絳州孤山僧写法花経救同法苦語
⇒「三宝感応要略録」中65
     書寫法華經一日即速救苦感應
絳州有孤山。永徽年中。有二人僧。同坊而住。一名僧行。行三階佛法。二名僧法。行法花三昧。二人要期。若前亡者必告所。後僧行先亡。三年後。僧法祈請觀音。夢至地獄。猛火熾然。不可親近。鐵網七重。而覆其上。鐵扉四面開閉甚固。百千沙門犯淨戒。不調身心者。在中受苦。問此中有沙門僧行不。羅答曰有。又曰。欲見。答不可見。又曰。我等佛子。如何固惜。即時羅。以鋒貫炭示之。僧法見K炭流泣。沙門釋子如何受苦。願欲見昔形。羅唱活。宛如平生。但身體燒爛。謂法曰。汝將救吾苦。法曰。如何救之。答為造法花經。法曰如何造耶。答一日之中。以可畢其功。法曰。貧道豈可一日中畢。答告苦不可忍。那難過。非一日猛利行。焉得苦息。夢覺即日。捨衣鉢資具。以書生四十人。一日寫之供養禮拜。其夜夢。僧行離地獄苦。近生利天矣。

[巻七#24]恵明七巻分八座講法花経語
⇒「三宝感応要略録」中66
     七卷分八座講法花經感應
釋惠明不知何處人。亦失俗姓。風帆甚閑聽惠多聞。頴悟佛乘。講法華經。天機獨斷。相訟説釋。或時入深山。坐石室講經。數群猿猴來聽法。經三月後。夜石窟上有光明。漸近窟前。是則天人。自稱。吾是猿猴群中。老弊而盲者是也。依聞公講。生利天。本身在室東南七十餘歩外。思師恩故。聽師講故。降臨此處。願聞講説。明如何講説。天曰。吾怱怱欲還天。師以一部典。分八而講。明曰。所持七卷。將分七座。何必八講。天曰。法花是八年説。若八年講實久。願開八座。擬八歳説。略可佛旨。明即分七卷成八軸。為天開講。天以八枚真珠。奉施而説偈曰。
 釋迦如來避世遠  流轉妙法値遇難
 雖値解義亦為難  雖解講演衆為難
 若聞是法一句偈  乃至須臾聞不謗
 三世罪障皆消滅  自然成佛道無疑
 吾今聞聽捨畜身  生在欲界第二天
 威光勝於舊生天  勝利難思不可説
説斯偈已。還上本天。明具記事。彫石而收。今見在矣。


[巻七#25]震旦絳州僧徹誦法花経臨終現瑞相語
⇒「冥報記」上三
     釋僧徹
絳州大コ沙門釋僧徹,少而精練;於孤山西阿造立堂宇,多樹林木,頗得山居形勝。
僧徹嘗出行山間,土穴中見一癩病人,瘡痍臭穢,從徹乞食;徹之,呼出與歸,於精舍旁為造土穴,給衣食,教令誦《法華經》。此人不識文字,性又頑鄙,徹句句授之,殊費功力,然終不懈倦。此人誦經向半,便夢有人教之,自後稍聰悟;至得五六卷,漸覺瘡癒。比誦一部畢,鬚眉復生,肥體如常,而能為療疾。(臨嘗患腫,僧徹遣此人禁咒,有驗;自説云然。)後房仁裕為秦州刺史,表僧徹所立精舍為「陷泉寺」。初,此地無水,僧徹常遠汲山下以自供。一朝,忽有陷,陷處泉出,故因以名陷泉寺也。僧徹專以勸善為務,而自修禪業;遠近崇敬如父焉。永徽二年正月,忽囑累徒衆,自言將死。既而,端坐繩床,閉目不動;其時天氣晴朗,雨花如雪,香而不消。方二里許,樹葉上皆有白色,如輕粉者;三日,乃復常色,而僧徹已終。至今三歳,獨坐如故,亦不臭壞,唯目涙下云。(徹弟子實秦等,及州人並説云爾。)


[巻七#26]震旦魏州刺史崔彦武知前生持法花語
⇒「冥報記」中十二
     崔彦武
隋開皇中,魏州刺史博陵崔彦武,因行部,至一邑,愕然驚喜,謂從者曰:「吾昔嘗在此邑中為人婦,今知家處。」迴馬入修巷,曲至一家,命叩門,主人公年老,走出拜謁。
彦武入家,先升其堂,視東壁上去地六七尺有高隆,謂主人曰:「吾昔所讀《法華經》,並金釵五隻,藏此壁中高處是也。《經》第七卷尾後紙,火燒失文字。吾至今,毎誦此經至第七卷尾,恒忘失,不能記。」因令左右鑿壁,果得經函;開第七卷尾,及金釵,並如其言。
主人涕泣曰:「亡妻存日,常讀此經,釵亦是亡妻之物;妻因産死,遂失所在。不望使君乃示其處。」彦武亦云:「庭前槐樹,吾欲産時,自解頭髮置此樹穴中。」 試令人探,果得髮。於是主人悲喜,彦武留衣物,厚給主人而去。(崔尚書敦禮説云然。往年見盧文勵,説亦大同;但言齊州刺史,不得姓名;不如崔具,仍依崔録。)


[巻七#27]震旦韋仲珪読誦法花経現瑞相語
⇒「冥報記」中十五
     韋仲珪
韋仲珪者,天性孝悌,為州里所敬。年十七,郡表左異,為蒙陽長。父廉直,資陽郡丞,以老歸;武コ中,遘病,仲珪不釋冠帶而養。久之,父卒,謝遣妻妾,守於墓左。信佛教,誦《法華經》;晝則負土成墳,夜專誦經典,精此不倦,終三年不歸。   嘗有虎,夜至牆前,蹲踞聽經,久而不去;仲珪正念曰:「不願猛獸之相逼也!」即起去。明旦,見繞墓生芝草七十二莖,當墳前者行,次第如人種植,皆朱莖紫蓋,蓋徑五寸,光色異常。隣里以告州縣,時辛君為刺史、沈裕為別駕,共至墓所察之;忽有一鳥如鴨,銜雙鯉,置於地而去。君昌等尤深嗟歎,採芝封奏,詔表門閭。(臨以貞觀七年奉使江東,揚州針醫甄陀為臨説此。)

[巻七#28]震旦中書令岑文本誦法花免難語
⇒「冥報記」中二十五
     岑文本
中書令岑文本,江陵人;少信佛,常念誦《法華經.普門品》。嘗乘船於呉江,中流船壞,人盡死;文本沒在水中,聞有人言:「但念佛,必不死也。」 如是三言之,既而隨波涌出,已著北岸,遂免死。
後於江陵設齋,僧徒集其家;有一客僧獨後去,謂文本曰:「天下方亂,君幸不與其災,終逢太平,致富貴也。」言畢,趨出。既而文本食齋,於碗中得舍利二枚;後果如其言。(文本自向臨説云爾。)


[巻七#29]震旦都水使者蘇長妻持法花免難語
⇒「冥報記」二十四
     蘇長之妾
武コ中,以都水使者蘇長為巴州刺史;蘇長將家口赴任,渡嘉陵江,中流風起,船沒,男女六十餘人,一時溺死;唯有一妾,常讀《法華經》,船中水入,妾頭載經函,誓與倶沒;既船沒,妾獨不,隨波汎濫,頃之著岸。遂戴經函,而開視其經,了無濕汗,今尚存揚州,嫁為人婦,而愈篤信。(岑令説云:見此妾自言然,臨因使其江上,船人説亦云爾。)

[巻七#30]震旦右監門校尉李山龍誦法花経得活語
⇒「冥報記」中二十九
     李山龍
左監門校尉,憑翊李山龍,以武コ中暴病亡,而心上不冷如掌許;家人未忍殯斂,至七日而甦,自説云:當死時,被冥官收録,至一官曹,廳事甚宏然、其庭亦廣大。庭内有囚數千人,或枷鎖,或械,皆北面立,滿庭中。
吏將山龍至廳事,一大官坐高床座,侍衛如王者。山龍問吏: 「此何官?」吏曰:「是王也。」山龍前至階下,王問曰:「汝生平作何福業?」山龍對曰:「郷人毎設齋講,恒施物同之。」王曰:「汝身作何善業?」山龍曰: 「誦《法華經》日兩卷。」王曰:「大善!可升階。」
既升,廳上東北間,有一高座,如講座者,王指座謂山龍曰:「可升此座誦經。」山龍奉命,至座側。王即起立曰:「請法師升座!」山龍升座訖,王乃向之而坐。山龍誦曰:「《妙法蓮華經》序品第一。」王曰:「請法師止。」山龍止座,復立階下,顧庭内,向囚已盡,無一人在者。謂山龍曰:「君誦經之福,非唯自利,乃令庭内衆囚,皆以聞經獲免,豈不善哉!今放君還去。」
山龍拜辭,行數十歩,王復呼還,謂吏曰:「可將此人,歴觀諸獄。」吏即將山龍東行百餘歩,見一鐵城,甚廣大,上有屋覆;其城傍,多有小窗,或大如小盆,或如盂椀。見諸男女,從地飛入窗中,即不復出。山龍怪問吏,吏曰:「此是大獄,獄中多有分隔,罪罰各異。此諸人者,各隨本業,赴獄受罪耳。」山龍聞之悲懼,稱「南無佛」,請吏求出,至院門,見一大,火猛湯沸,傍有二人坐睡,山龍問之,二人曰:「我等罪報,入此湯。蒙賢者稱南無佛,故獄中罪人,皆得一日休息,疲睡耳。」山龍又稱「南無佛」,吏謂山龍曰:「官府數移改,今王放君去,君可白王請抄,若不爾,恐他官不知,復追録君。」山龍即謁王請抄,王命紙,書一行字,付吏曰:「為取五道等署。」吏受命,將山龍更暦兩曹,各廳事侍衛亦如此,王之遣吏,皆取其官署,各書一行訖,付山龍。
龍持出至門,有三人語山龍曰:「王放君去,可不少多乞遺我等。」山龍未言,吏謂山龍曰:「王放君,不由彼;然三人者,是前收録君使人,一是繩主,當以赤繩縛君者;一是棒主,當以棒撃君頭者;一是袋主,當以袋吸君氣者。見君得還,故乞物耳。」山龍惶懼,謝三人曰:「愚不識公,請至家備物,但不知於何處送之?」三人曰:「於水邊、若樹下。」山龍許諾,辭吏歸家,見正哭經營殯具;山龍入至屍傍,即甦。
後日,剪紙作錢帛,並酒食,自送於水邊燒之。忽見三人來謝曰:「蒙君不失信,重相贈遺,媿荷。」言畢不見。(山龍自向總持寺主僧説之,轉向臨説之云爾。)


[巻七#31]為救馬写法花経免難人語
⇒「冥報記」下三十四
     仕人梁
  北齊時,有仕人姓梁,甚豪富。將死,謂其妻子曰:「吾平生愛奴及馬,皆使乘日久,稱人意。吾死,可以為殉。不然,無所使乘也。」  及其死,家人以盛土,壓奴殺之;馬則未殺。奴死四日而甦,説云:當不覺去,忽至官府門,門人因留止。在門所經一宿,明旦,見其主被鎖,嚴兵守衛。將入官所,見奴謂曰: 「我死,欲得奴婢,遺言喚汝,今各自受苦,全不相關。今當白官放汝。」言畢而入,奴從屏外窺之,見官問守衛人曰:「昨日押脂多少乎?」對曰:「得八斗。」官曰:「更將去,押取一斛六斗。」主即被牽出,竟不得言。明日又來,有喜色,謂奴曰:「今為汝白也。」及入,官問:「得脂乎?」對曰:「不得。」官問所以,主司曰:「此人死三日,家人為請僧設齋。毎聞經唄聲,鐵梁折,故不得也。」官曰:「且將去!」主因白官,請放奴;官即喚放,倶出門。主遣傳語其妻子曰:「ョ汝等追福,得免大苦,然猶未脱;能更寫《法華經》、造像,以相救濟,冀固得免。自今毋設祭,既不得食,而益吾罪。」言畢而別。
奴遂生,而具言之;家中果以其日設齋,於是傾家追福,闔門練行。(臨舅高經州説,云見齊人説之。)


[巻七#32]清斉寺玄渚為救道明写法花経語
⇒原典不詳
壁の穴から覗いた地獄の景色。

[巻七#33〜40]  (欠文)

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