→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2020.6.4] ■■■ [340] 金色彌勒菩薩像 おそらく、頭に広隆寺の彌勒半跏像のイメージが焼き付いているからだ。 その辺りをまるでご注意されているかのようなお話が収載されている。天竺には十丈の黄金弥勒木像があったというのだから。(広隆寺所蔵像は金色と記録にあり、実際に金箔もわずかに残っている。) 【天竺部】巻四天竺 付仏後(釈迦入滅後の仏弟子活動) ●[巻四#39]末田地阿羅漢造弥勒語 ⇒非濁[n.a.-1063年][撰述]:「三寶感應要略錄」下11 烏長那國達麗羅川中彌勒木像感應 ⇒玄奘:「大唐西域記」@646年 三 烏仗那國(十一)達麗羅川 北天竺の烏仗那/烏萇国の達麗羅川に寺がある。 そこに、金色10丈ほどの弥勒菩薩木像が安置されている。 仏が涅槃に入った後、末田地大阿羅漢が造像したと伝わる。 羅漢は像に向って申し上げた。 「釈迦大師は滅後の弟子達を、皆、弥勒に託されました。 と言うことで、 弥勒出世の際、三会に解脱を得る者は 釈迦の遺法の中で一度"南無"と称して 一握りの食を施した人達。 ところが、弥勒は今兜率天昇ってしまわれました。 衆生は、どうやって弥勒にお会いしたらよいのでしょう。 この造りし像は、弥勒の真のお姿には似ていますまい。 そこで、神通力を以て兜率天に昇り、 面と向かって、弥勒のお姿を3度拝顔させて頂き、 その後、弥勒像をお造りし奉納致したいと思います。」と。 その時、弥勒は末田地に告げたのである。 「我は天眼を以て、三千大千世界を見ておる。 その衆生の中で、我の形象像を造る者がいるなら、 我はその功を助け、必ず、悪趣に堕ちずに済むよいにいたそう。 我、成道の時には、 その像による導きで、我の處に来ることができよう。」 さらに、賛辞を。 「善哉。 汝、 "釈迦の正法末に、我が形象の像を造り、我が處に来る。" と申した。」 その時、この像は虚空に昇って、大いに光を放ち、 偈を説いたのである。 聞く者は、皆、涙を流して歓喜。 ことごとく三乗(声聞乗・縁覚乗・菩薩乗)果を得た。 烏仗那国旧都 達麗羅川とは、陀歴@現パキスタン最北部ダレル渓谷では。401年に八丈の彌勒菩薩木像があったから。 有一小國名陀歴。亦有衆僧,皆小乘學。 其國昔有羅漢,以神足力, 將一巧匠上兜術天,觀彌勒菩薩長短、色貌,還下,刻木作像。前後三上觀,然後乃成。 像長八丈,足趺八尺, 齋日常有光明, 諸國王競興供養。今故現在。 [法顕:「佛國記(法顕伝)」] 法顕は子合國@葉城⇒於麾國⇒竭叉國⇒[葱嶺]⇒陀歴と、北天竺山岳地帯へと入った。仏跡巡礼ということで、すぐに8丈の弥勒木像参詣。もちろん、現存しないが。翻訳地名からして、いかにも超有名な巡礼地という感じ。 羅漢が兜率天に上り弥勒菩薩に3回観仏させて頂き、趺坐足長8尺の8丈像を作ったとされ、諸国の王が供養していると書かれており、中央アジア/西域と天竺の交流が仏教勢力に支えられていたことを物語る。 つまり、弥勒大仏は、天竺とパミール高原の境界地としての象徴像と言えよう。 仏教遺跡として有名なのはガンダーラだが、そこでの仏像は基本は石像。その後、周辺地域では、石材不足か安置場所の都合か理由ははっきりしないが、摩崖像やテラコッタ/泥像が主流になった。もともと乾燥地帯だから木像は稀なのは当然だ。にもかかわらず、ここだけは木製大仏なのだ。 このことは、この辺りの渓谷地帯だけは、湿潤的気候に近く大木が鬱蒼と茂っていたことになろう。 地質上、石材調達は難しいのは明らかだし。 降雨というより、濃霧気象で湿潤の可能性もあり、巨大なお堂に安置せず、表面全面金箔で被った露地仏かも。 今では、そんな跡形などなにも見つからないが、イスラム勢力に木っ端微塵にされたからか、あるいは、何百年に1度の雪解け大洪水にでも襲われたか、想像がつかぬ。 尚、末田地は阿難晩年の弟子。「釈尊伝灯」では、"釈尊⇒大迦葉⇒阿難⇒末田地⇒商那和修⇒優婆鞠多⇒"とされている。[→無着の神通力] 滅後50年の頃、北天竺罽賓[カシュミール地域]で教化活動を行い、説一切有部教団を作り上げたようだ。 (C) 2020 RandDManagement.com →HOME |