→INDEX![]() ■■■ 今昔物語集の由来 [2020.7.7] ■■■ [373] 法華義疏 ![]() そのなかで、愉し気に"講"へのご参加をお勧めしている」譚があるので見ておこう。 十月に行ふ事なれば、程も極て哀れ也。 「心有らむ人は、参て値ふべき事也」と 源氏物語によれば、女房連中が半ば娯楽で行ったようで、爆発的人気の行事であり、その調子で書いたと思われる。 その講とは、法華八講。 読師、講師が法華経全8巻を朝夕二座四日間で完結させる天台系の講座。問者との論議も設定されている。実態的には、貴族の絢爛華麗な法会と言ってよいだろう。 【本朝仏法部】巻十四本朝 付仏法(法華経の霊験譚) ●[巻十四#11]天王寺為八講於法隆寺写太子疏語 ○(四)天王寺の別当 定基が僧都として、 御堂(藤原道長)の為に法華八講を初めて行うことになった。 御堂の近習(家司)河内守 藤原公則は、この費用に河内の田を寄進。 その地租のお蔭で、 後々の別当も八講を途絶させることなく行うことが出来た。 ----- 27代 道命[974-1020年]:藤原道綱の子 師:良源📖道命阿闍梨読経聴聞の霊験 28代 定基[977-1088年] 32代 斉祇[n.a.]:藤原道綱の子 40代 覚猷/鳥羽僧正[1053-1140年] [「天王寺別当次第」に80代まで記.] ----- ○別当 斉祇僧都は 八講には、聖徳太子:「法華義疏」を用いるべきと。 ところがその疏は太子のお住まいの法隆寺東院御物で 外には無いし、御手書きだから持ち出せない。 そこで、上座の僧に手書き僧をつけ、法隆寺に派遣し、 書写させるべきと決定。 一行到着し、 「然々の事により、天王寺より参りました。」と。 しばらくすると 甲の袈裟を着た10人ほどの僧が香炉を捧げてやって来て、 天王寺の僧達を迎え入れ 写経場所が設けてある夢殿の北の家屋に案内された。 そして、疏が取り出され、経緯が語られた。 ![]() 天王寺から僧共が来て、 太子がお作りになった 上宮王疏と呼ばれる一巻本を 天王寺八講で講ずるため書写したいと言う。 今日、来たら、速やかに迎え入れ、 惜しむことなく取り出し、 書写させるべし、というもの。 そこで、法服を着用し、お待ちすることに。 実際、夢の通りで、 これは太子のお告げでございましょう。」と。 皆泣き、天王寺僧達も、これを聞き、泣いて貴んだのである。 法隆寺の手書する僧も多数参加したので、天王寺僧と合わせ、 それぞれが1〜2枚づつ書くだけで、すぐに完成してしまい、 派遣僧は天王寺へと返って行った。 この後、この疏を八講で講ずることになり 太子が夢でお示しになった講であり、 極めて尊いと人々は言うように。 十月に行う法事なので、時節も極めて哀れであり 心ある人は参詣してお会いしたら、と語られている。 尚、正史では、聖徳太子が推古天皇に法華経を講じたのは606年で、疏は斑鳩寺に納めたとされる。 現存する「法華義疏」だが、法隆寺が長らく所蔵していて、1878年、皇室に献納されている。ただ、斑鳩寺は669年に火災で焼失しており、「法隆寺東院縁起」761年には"律師法師行信覓求奉納"とされているから、もともとは法隆寺外で保管されていたのである。 この本は、用紙サイズがばらばらで、切り張りを彷彿させるし、経典の間違いも少なくないそうだ。そこからすると、筆跡から見て同一人物の書だから、勉学途中の草稿をまとめ、手を入れた講演原稿書の可能性が高かろう。 (C) 2020 RandDManagement.com →HOME |