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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.8.25] ■■■
[422] 賈誼文章家
文君と相如の相思相愛出奔話は「史書」の翻案小説と書いたが[→]、要は、「今昔物語集」編纂者のセンス抜群ということ。と言っても、その譚だけ見ていてはわからない。
つまり、賈誼が前段で登場しているので、気付かされる仕掛け。インテリの粋と自負している人々が集まるサロンでの談論から生まれた書でなければ、こんな嗜好を考える訳がないと思う。
  【震旦部】巻十震旦 付国史(奇異譚[史書・小説])📖「注好選」依存
  <16-27 武将・文官>
  [巻十#24] 震旦賈誼死後於墓文教子語

ただ、この譚、賈誼生存中については、たったの1行しか記述がない。
  賈誼は心に悟り有て、文を読むに、愚なる事無し。
残りは、子息が墓で文章を教えてもらったという話。
息子についてはほとんど知られていないのに、こんな話を敢えて収載しているのである。奇譚だからではなく、賈誼だからこその筋を創ったということ。

毛沢東に伝えたらどんな反応が返ってきたか考えると実に面白いが、ともあれ、この巻は"国史"譚集成の位置づけであることを忘れるべきでない。
  司馬遷:「史記」卷八十四列傳24屈原賈生[2賈誼]
  班固:「漢書」卷四十八列傳18賈誼

   【贊】師古曰:「賈誼書愛人之状,好人之技,仁道也;・・・

賈誼は「史書」必須の人物ということ。
毛沢東まで綿々と流れる、中華帝国の"政論&辭賦"の祖と言っても過言ではなかろう。政治思想的には、重農反商と非漢族軍事支配でしかない単純なものだが、両者を結合することで軍事独裁が貫徹できる仕掛け。
もちろん、それは現代人としてのセンスから政論を眺めたものでしかない。

「今昔物語集」編纂者のセンスからすれば、賈誼は「楚辞」流と辞賦(「詩経」)の文芸祖ということになる。祖はもう一人おり、それが司馬相如。この観点から見れば、賈誼の代表的作品は「鳥賦」で、相如は「上林賦」になろうか。屈原の流れを汲む"志"と運命という抒情重視路線と、官僚好みの帝讃嘆の記述的表現の流れの祖ということになろう。

尚、賈誼の系譜情報は少ないが、文章家として相伝が確立していたのは間違いないようである。
  [初]賈誼[前200-前168年]
  [2]n.a.(賈薪)
   :
  [4]賈捐之[n.a.-前43年]
   :
  [7]賈光
  [8]賈徽
  [9]賈逵[30-101年]

○漢代。
○賈誼は心に悟り有て、文を読むに、愚なる事無し。
○薪という息子がいたが、
 賈誼が(33才で)逝去した時、まだ幼かった。
 そのため、文を学ぶ機会がなかった。
 「世の中をどう渡って行こうか?」と思うと、
 心細く歎くしかできなかったので、
 夜、父の墓に詣で、
 諸々の事を云ひ続け、泣々く拝例した。
  すると、亡き賈誼、子の薪を見て、墓から出て来たのである。
  誼:「汝、文を学ぶべし。」
  薪:「我れ、"文を学ぼう。"と思ってはいるものの、
     誰を師として学ぶべきかわからず。」
  誼:「汝、文を学ぼうと考えているなら、
     この様に、毎夜、ここに来て、我に随って学ぶべし。」
 ということで、薪、その後、父の教へに随って、
 夜々墓に行き、文を学習し15年。
○その甲斐あって、その道の達人となった。
 国王がその由を聞きつけたので、
 薪は召されて、仕えることに。
 実際、その道で達者であったため、重用され、
 ついには、一線で仕事をするまでに。
 その後、薪は墓に詣でたが、誼が現れることはなかった。


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