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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.8.26] ■■■
[423] 霍去病死去
震旦国史の巻に、一見、滅茶苦茶な話が収載されている。国史ということでなければ、なんら気にもならない話だが、そう銘打たれていると、コリャ一体何なんだということになる。
  【震旦部】巻十震旦 付国史(奇異譚[史書・小説])📖「注好選」依存
  <16-27 武将・文官>
  [巻十#18] 霍大将軍値死妻被打死語
 先(or 元)帝の時代。
 霍大将軍は、心猛く、悟っていた。
 妻は国王の御娘。
 ところが、妻逝去。
 将軍、限り無く恋しく、悲しんだものの、
 再び相見える訳ではない。
 ということで、
 将軍、すぐに栢の木を伐採し、
 死んだ妻を葬むる場として霊殿を造営。
 その後、将軍、悲しみの心、堪えがたく、
 朝に暮にと、霊殿に行き、食物を供え礼拝して還っていた。
 その様な生活で1年が経った。
 将軍、日暮れになったので、かの殿に行き、
 例の如くに供えていると
 亡妻がもとの姿で出て来た。
 将軍、それを見て、恋いしいとの心は深かったものの、
 際限ないほどの恐怖に襲われた。
 妻:「汝、我を恋して、かくの如くしてくれ、
    実に、哀れにして貴い。
    我、喜こんでおる。」
 将軍、この声を聞いて、ますます恐怖にかられた。
  夜が更け、人気も無く、
 将軍は、逃げ去ろうと考えていると、
 妻に捕らえられ、すぐに抱擁されてしまった。
 将軍は、恐怖で気も迷ってしまい、逃げようとすると、
 妻に、手で腰を打たれた。
 将軍は、打たれながらも、逃げ去ったが
 帰宅後、腰が痛み、夜半になって死んでしまった。
 その後、"_皇"
(帝)がこの事を聞きおよび、
 この女霊を貴び、封百戸を加へなさった。
 それからというもの、国に災厄が発生する時には、
 かの霊殿内が、雷の音の様に鳴り響くように。
 それに加え、新たな事が起きても鳴る。
 世の中では、その音を聞くと、
 「例の栢霊殿の音が鳴っている。」と言うようになった。


先ず、皇帝と霍大将軍が誰なのかという点から。
○霍仲孺
├┐
[兄]霍去病[前140-前117年]…大司馬驃騎将軍@武帝
│○[異母弟]霍光[n.a.-前68年]…大司馬大将軍
││
││[母]霍
│○霍禹[n.a.-前66]、霍成君[前80-前54年]
├┐
○霍[n.a.-前110]…武帝封禅儀供
○n.a.

○霍山[n.a.-前66]、霍雲[n.a.-前66]
【前漢皇帝】景帝[前157-前141年]⇒武帝[前141-前87年]⇒昭帝[前87-前74年]⇒昌邑王[前74年]⇒宣帝[前74-前49年]⇒元帝[前49-前33年]

と言うことで、小生は、匈奴討伐の功で超有名で、24才で逝去した霍去病と武帝とみなした。尚、史書での霍去病伝ではもっぱら将軍としての働きが記載されている。
司馬遷:「「史記」卷百十一列傳51衛將軍驃騎[2霍去病]

しかし、妻の霊廟の話はどういうことかさっぱりわからず。そもそも、婚姻自体が誰とどのような経緯で行われたかの情報が見つからないので、どうにもならない。

その程度の事象であるにもかかわらず、亡妻霊廟が栢で建造され、名称が"栢霊殿"とされ、この点がいかにも強調されているようだからナンダカネ感が生まれる訳だ。
この栢だが、柏とも書く。ここらが厄介なのだが、この樹木は常緑樹。日本の柏/かしわ[炊葉]は落葉樹であり全く別種。そして、栢/柏は、実質的に皇帝国家宗教としての儒教と結びついている特別な樹木なのだ。・・・
松柏を植える目的は人民を戦慄させるため。私社を禁止し、宗廟社稷の天子-官僚による一括的統率の実現を図ったのである。[→赤木]
   哀公[魯の国王]問社於宰我[孔子門人]。
   宰我對曰。夏后氏以松。殷人以栢。周人以栗。
   曰使民戰栗。
   子聞之曰。成事不説。遂事不諫。既往不咎。   [論語 八第三]

占いとも関係するし、
   孔子聞之曰:「神龜知吉凶,而骨直空枯。・・・
   松柏為百木長,而守門閭。  [「史記」卷百二十八列傳68龜策]

儒者の生業でもある葬儀にも関係する。
   天子之棺四重;水革棺被之,其厚三寸,棺一,梓棺二,四者皆周。
   棺束縮二衡三,衽毎束一。
   伯椁以端長六尺。(椁=棺の外側を覆う枠)  [戴聖[編輯]:「禮記」檀弓第三上]


そして、前115年、武帝は長安西北に鋳銅柱柏木梁を用いた高さ数十丈の楼台"柏梁台"を建造したのである。(前104年焼失)大々的な詩作宴会開催で有名であり、本朝でも、それになぞらえ、朱雀院内北東部に皇后/大后の御在所"柏殿/かえどの"を設けている。("柏殿/かしわどの"は落葉樹カシワ葉に由来する膳殿で本朝独自であり、両者は無関係。)

要するに、武帝は道教的神仙信仰にどっぷり浸かり、儒教の儀式を重視し、匈奴の地を武力支配することに熱をあげる皇帝だったということ。(経済力・軍事力で遊牧勢力を凌駕した農耕を基盤とする帝国が、一気に領土拡大=農地化を進めたと見ることもできよう。)
漢王朝内での権力闘争も凄まじく、上記の霍一族も前66年を期に滅亡することになる。

この譚は、そうした精神的風土を感じさせるものとも言えそう。史書は、こうした土壌を踏まえて読まねば、と指摘しているも同然。
この譚に関係する書は以下。「今昔物語集」編纂者は熟慮の上で収載に踏み切ったと考えるべきだろう。・・・
    李ム:「太平廣記」卷二百九十一神一18宛若(出《漢武故事》)
漢武帝起柏梁台以處神君。
神君者,長陵女,嫁為人妻。

   (長陵=高祖劉邦と呂后の合葬墓)
生一男,數死。女悼痛之,中亦死。死而有靈,其宛若祠之。
遂聞言:宛若為主,民人多往請福,説人家小事,頗有驗。
平原君亦事之,其後子孫尊顯。以為神君力,益尊貴。

   (平原君=武帝外祖母 臧兒)
武帝即位,太后迎於宮中祭之。聞其言,不見其人。至是神君求出,乃營柏梁台舍之。
初霍去病微時,數自神。神君乃見其形,自修飾,欲與去病交接。
去病不肯,責神君曰:「吾以神君清潔,故齋戒祈福。今欲為淫,此非神明也。」
自絶不復往,神君亦慚。
及去病疾篤,上令神君。
神君曰:「霍將軍精氣少,命不長。吾嘗欲以太一精補之,可得延年。
 霍將軍不曉此意,乃見斷絶。今不可救也。」
去病竟卒。
衛太子未敗一年,神君乃去。

   (衛太子=武帝嫡長子"戻太子"劉據[前128-前91年]
   母:第二任皇后 衛子夫[霍去病姨母, 宣帝曾祖母])

東方朔娶宛若為小妻,生子三人,與朔倶死。

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