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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.9.2] ■■■
[430] 洞庭湖文化圏
楚の地(洞庭湖/湘江:湖南+湖北)は中原/河南とは異なる文化圏である。
よく知られるようになった馬王堆漢墓・炭河里遺跡@長沙があり、殷代と推定される青銅製の鼎や鐃が大量に出土している地でもある。
その銅鉱山(銅緑山@湖北黄石)は現在迄続いており、中国としては珍しい露天掘り。殷代の巨大都市遺跡 盤龍城@湖北武漢もあり、(飯祭器)(酒祭器)が出土。
鬼神との交信祭祀がなされていたことがわかる。

「酉陽雑俎」の著者とは違い、「今昔物語集」の編纂者は、それほど関心がないと思うが、この地域の拠点は現代でも武漢と長沙。ここらはえらく気になった筈である。
なんとなれば、天台大師智[538-598年]は少年期、江陵長沙寺@湖南長沙の仏像の前で出家を誓ったからだ。
  天台大師俗姓陳,其名智華容人。
  隋煬皇帝崇明因,號爲智者誠敬申。
  師初孕育靈異頻,彩烟浮空光照鄰。
  堯眉舜目熙若春,禪慧悲智嚴其身。
  
長沙佛前發弘誓,定光菩薩示冥契。
  [顔真卿[撰]:「天台智者大師畫贊」]

そして18歳で湘州果願寺@長沙で出家。

そんなことで収録に踏み切ったのではないかという譚。邪推か?・・・
  【震旦部】巻六震旦 付仏法(仏教渡来〜流布)
  <像>
   《15-20弥陀仏》
  [巻六#20] 江陵僧亮鋳弥陀像語
  ⇒「三寶感應要略」上16宋(江陵長沙寺)沙門釋僧高造丈六無量壽像感應
     (出梁高僧傳 珠林中取意)

 江陵の僧 僧亮は、深く極楽往生を願っていて、
 丈六の阿弥陀仏像を顕し奉ろう。」と考えていた。
 しかしながら、これは並大抵のことではなく、
 年月が経つだけで、一行に実現しないままだった。
 そこで、僧亮は思案。
 「伝へ聞くところによると、
  湘州
@湖南+湖北の銅(錮)渓山の廟に、鐃(饒)銅の器が山の様にあると。
  それ全て、鬼神が所領としており、出し惜しんでおる。
  それなら、我、そこへ行き、銅器を取得し
  阿弥陀仏像を鋳造奉り、我が願を完遂し、
  その上で、その鬼神をも導こう。」と思い、
 その州の刺史である張邵に事由を語り
 百人ばかりを乞い、船に乗せ、海を渡って行った。
 張邵:「この廟は霊験あらたか。
    この場を犯す者は簡単に死んでしまう。
    それに、蛮族が守護しており、近寄り難い。
    と言うことで、これは難儀であり、まったく恐るべきこと。」
 僧亮:「君の言うことは、もっともなこと。
    しかれども、
    我は、この願を遂行する所存。
    だが、その福は君にお譲りする。
    そして、共に死のうではないか。」
 張邵は、これを信じ、船を出すことにし、
 船も人員も言われた通りに与えたのである。
 僧亮は、望み通り得られたので、喜んで乗船し、
 数(百)人引率し、銅渓山に到着。
 一泊たりともしていないのに、
 神は、既にこの事を悟っていた。
 大風が吹き、雲が覆ってしまい暗くなってしまった。
 沢山の鳥獣が鳴き騒いだ。
 廟屋に行き着く前、20歩少々の場所に、
 銅のが2つあった。
 それぞれ、数百石を納める大きさ。
 よく見ると、長さ十余丈の蛇が、
 の中から這い出して来ており、
 通り道を横断し、這い渡って行ったのである。
 100人いた従者は、これを見て、皆、恐れて逃げ散ってしまった。
 すると、僧亮は、服を整へ、進み寄って、錫杖を振り、
 大蛇に向って言い放った。
 「汝、前世の罪業が重いが故に、今、大蛇の身を受けており、
  三宝の名を聞いていない。
  そこで、我、
  "丈六の阿弥陀仏像を鋳造し顕そう。"と考え、
  この場所に鐃銅の器が有るとの話を聞き、遠くから来たのだ。
  願くは、道を開けて欲しい。
  そうして、この願を遂行することで、汝等を導こうと思っておる。」と。
 蛇は、この言葉を聞いて、
 頭を持ち上げて、僧亮を見てから、身を引いて去って行った。
 その時、僧亮は、逃げ散った数人を呼び集め、
 率いてその銅器を取ると、さらに、林の辺に壺が1個有った。
 容量にして四升ほど。
 その内に蝘蜓が居た。
 長さ二尺ほどで、跳躍して出入りしていた。
 僧亮は、これを見て、際限無きほど恐怖にかられた。

  →[我的漢語]酒器と由来
 これらの銅器は多量収蔵されていたものの
 大きなものは重すぎて一つも運べない。
 そこで、最小のものを選んで船に積み込み満載で帰還。
 そして、この廟を守護している人々は、
 敢えて、拒絶し、その行為に歯向かうこともなかった。
 と言うことで、僧亮は都に帰還し、
 願を懸けた通りに、丈六阿弥陀仏の像を鋳造。
 元寿9年に完成。

   (元壽は前漢 哀帝代で元年[前2年]と2年しかない。
    南朝宋 文帝代の元嘉9年[432年]だろうか。)

 神もこの行為を咎と見なさず、端厳威光を現わされた。

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