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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.9.15] ■■■
[443] 交杯換盞
🍷🍷本朝では、"水盃"が今生の別れの覚悟の儀式とされるが、釈尊の末期の水から来ているのだろうか。

一方、震旦では、"交杯換盞"となるのであろう。勧君更尽一杯酒であり、酒そのものではなく、見つめ合って杯で酌み交わすことに意義があるのは明らか。言うまでもなく、この「送元二使安西」は詩仏の作品である。

どのような杯を使うかも、それぞれ拘りがある。
せっかくだから、官僚生活に嫌気を覚え、嵩山隠居で一生を終えた于武陵の詩を引いておこう。
  「勧酒」 于武陵 📖黴臭き漢詩を読む
 勧君金屈卮、満酌不須辞。  卮=盃
 花発多風雨、人生足別離。

現代日本では、社会的にとうに忘れ去られており、僧侶に酒を勧められる状況にあるが、仏教五戒には不飲酒が含まれている。
しかし、唐代の在家仏教徒はほとんど気にしなかったというか、文人墨客の結縁に酒はつきものとされていたのである。
香山居士こと白楽天に至っては、酒詩の数はとてつもない。本朝では「白氏文集」はそれこそ貴族社会のベストセラーだったから、そんな文化を皆よくご存じだったのである。

「今昔物語集」編纂者もそこらをどう扱うか苦悩したかも。と言っても、それは愉しい思索だったに違いないが。
なんといっても、震旦国史の巻にそれを入れ込もうとの企画なのだから。

その結果選ばれた譚が徳利ならぬ、百姓利徳の盃譚。
「酉陽雑俎」にも、当然、百姓は登場するが、余裕ある生活者が少なくなかったようだ。
  【震旦部】巻十震旦 付国史(奇異譚[史書・小説])📖「注好選」依存
  《36-40 他》
  [巻十#40] 利徳明徳興酒常行会語
  ⇒「注好選」上74利徳報蓋
 利徳と明徳は上戸。
 三日にあけず、常に往来し、
 酒を呑むことを習慣としていた。
 ある時、
 利徳は泥田を耕すため外出したが、
 そうとは知らず
 明徳は利徳の家を訪問。
 留守で、いたしかたないので、
 利徳の家内に酒坏を請い、
 庭の池の橋の上に出て、池の水を汲み、
 酒坏に指水して呑んでから返っていった。
 その暮に、利徳は帰宅し
 妻から、明徳が来訪した時の様子を聞いた。
 利徳は、あくる朝になると、池の橋の上に出て、
 昨日の明徳と同じように水を汲んだ。
 そして、声を出してとなえた。
 「御酒が欲しい訳ではござらぬ。
  明徳の杯が香ばしいのだ。」と。

【ご教訓】
昔は、酒を飲むにしても、このようだった。

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