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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.9.25] ■■■
[453] 柿葉詩
国史の巻に収録するような話とは、とうてい思えない譚を取り上げてみよう。
  【震旦部】巻十震旦 付国史(奇異譚[史書・小説])
   📖「注好選」依存 📖「俊頼髄脳」好み
  《1-8 王朝》
  [巻十#_8] 震旦呉招孝見流詩恋其主語
  ⇒「俊頼髄脳」呉招孝
 呉の招孝が若かった頃のこと。
 宮中から流れ出ている河の辺りで
 遊んでいた。
 すると、
 女手で詩が書かれた
 紅葉した柿の葉が流れて来た。
 誰だかわからないものの、
 恋心を抱くように。
 そこで、
 その詩に和し、同じように書いて
 上流から宮の中へと流した。
 ついには、
 恋しくて詩を眺めて泣くまでに。
 そんなことで年月が経っていった。
 宮中には、閉じ込められた女御が大勢となり、
 お会いにお出かけにもならなくなったので、
 徒に年をとるだけなので
 親元に戻して嫁がせるのがよかろう、と、
 天皇が仰せに。
 と言うことで、返された女御の一人が
 招孝を聟ととした。
 しかし、柿葉詩の女御への恋心の火は消えず、
 と言って、親の居ることでもあり
 妻には心苦しく思っていた。
 ただ、妻も、物思いにふける夫を怪しいと見て
 どうしたのか隠さず申して欲しいと告げた。
 招孝は正直に告白。
 妻は、それを聞いた途端、涙し、
 それは自分であると言い、
 大切に持っていた、和した柿葉詩を出して来た。
 二人の仲は、浅い契りではなかったことを知り大泣き。
 そして、当時の状況を夫に話した。
 二人共に
 「夫妻の契、前の世の宿世也けり」と確信したのである。


「俊頼髄脳」は皆読むような書だったらしいので、この話、本朝ではよく知られていたらしい。南北朝の頃の書には、唐土では柿葉詩を流す風習があるということでの歌が収載されているとも。(調べていないが, 私撰集「六華和歌集」,「年中行事歌合」とされているようだ。)
後宮で紙が無いほど貧していたとは信じがたいから秘密裡に行ったのだろうが、それを表沙汰にする必然性があるとも思えない。

常識的には、葉に文字を書くとなれば、仏教経典の貝葉(多羅樹)を指す。「酉陽雑俎」では、仏教関連譚の巻の題名は"貝編"である。柿葉もほぼ寺でしかつかわないのではなかろうか。・・・
柿葉で有名なのは、大寺の鄭虔[691-759年]であり、後宮の女御の恋詩ではないと思うが。
  「孫老寄墨四首 其三」 蘇軾/蘇東坡[1037-1101年]
  我貧如饑鼠,長夜空齧。
  瓦池研竈煤,葦管書柿葉。
  近者唐夫子,遠致烏玉
  先生又繼之,圭璧爛箱篋。
  晴窗洗硯坐,蛇蚓稍蟠結。
  便有好事人,敲門求醉帖。

  「書退之詩」 蘇軾/蘇東坡
  韓退之"遊青龍寺"詩,終篇言赤色,莫曉其故。
  嘗見小説,
鄭虔寓青龍寺,貧無紙,取柿葉學書。
  九月柿葉赤而實紅,退之詩乃寓此也。

  歐陽修,等:「新唐書」卷二百二列傳127文藝中[15]鄭虔
  虔善圖山水,好書,
  
常苦無紙,於是慈恩寺貯柿葉數屋,遂往日取葉肄書,久殆遍。
  嘗自寫其詩並畫以獻,帝大署其尾曰:「鄭虔三絶」。
  遷著作郎。

    (「寺塔記」@「酉陽雑俎」によれば、大慈恩寺は"寺中柿樹白牡丹。")

この柿葉恋詩交換だが、どこか本朝的である。渡来の無病息災儀式としての"曲水の宴"と言うよりは、「古事記」で上流から箸が流れてくる話を彷彿させるし、和歌の交換で恋心が深まって通い婚が成立する本朝貴族の風習を暗示しているようにも思える。

尚、「俊頼髄脳」はあくまでも歌論であって詩論ではない。
それを、震旦国史の巻にもってくるところが、「今昔物語集」編纂者のセンス。

その感覚だと、"柿葉"のイメージをよく伝えるのは張均:「岳陽晩景」の"園紅柿葉稀"か。1首のみ残るのは、安禄山に宰相に引き上げられて、配流されたからだろう。その途中で通った夕暮れの名勝で詠った作品だが、父親の長説が建てた洞庭湖の岳陽楼を見て、僅かに残る紅色柿葉に感慨を覚えたということか。

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