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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.10.10] ■■■
[467] 比叡の塔・谷・房
僧兵に対する「今昔物語集」編纂者の想いを考えていて📖僧兵抗争、ふと気付くことがあった。
誰でもが知る武蔵坊弁慶の名前が頭をよぎったからである。1185年討ち死にだから、1120年成立の書の編者は知る由もなかろうが。

にもかかわらず、なにが気になったかと言えば、源義経の物語では、"比叡山西塔北谷の武蔵坊"の法師が郎党になったことを、格別視している点。
弁慶は狼藉者として追放され、行った先は書写山圓教寺。そこは、花山法皇・源信・慶滋保胤が参詣に及んだ、良源の弟子 性空が開基の寺だが、なんと堂宇を燃やしてしまうのである。その後、都で武者に決闘を挑んで、指ではなく、1,000太刀収集を誓願するとのシチュエイション。「今昔物語集」を読んでいると、思わずうならされるものがあろう。

義経・弁慶物語のこうしたストーリーはどうでもよいのだが、どうして"房"名に拘るのか考えてしまったのである。比叡山は寺域が広大な上、僧の数も膨大であるとはいえ、今でも、比叡山延暦寺参詣では、「三塔十六谷」という紹介から始まるところを見ると、これはある種のイメージを伴っていると考えてもよいのではないかと。

山門と寺門の深刻な対立にとどまらず、その後、山上で2塔+横川での熾烈な争いになっていくが、「今昔物語集」をボケッとなにげなく読み通していくと、その辺りが見えてくる。
例えば、祇園祭の主導権を巡って、街と森とも言える、新羅 v.s. 赤山の対立を感じ取ってしまうのと同じ。神の出自は同じでも、両者の文化は実は水と油である。街道沿いの寺僧は俗に近かった筈で、山上ではあり得ない、妻帯魚食酒飲が見られてもおかしくなかろう。土着神の祭祀との混淆を考えると、破戒といっても大衆化路線を進めば避けられないことかも。もともと、古くからの近江比叡山信仰の上に仏教が乗った形だし。

考えてみれば、山の2塔+横川も同じことがいえよう。

3ヶ所を巡って、最高位の天台座主に上り詰めた僧もいたものの、それは例外的と見てよいだろう。角逐がある上に、指名プロセスは曖昧だからだ。そもそも、朝廷が任命するのだから、山に住していなかった座主も少なくなかったと思われる。比叡山全体の経営からすればそれも悪くはないから、なかなかに難しい問題を抱えていた筈である。

しかし、巨大組織になると、全山を経済的に統合して運営などできる訳もない。
常識的には経済単位は"谷"とならざるを得まい。もちろんミクロでは、そこに存在する"房"の主毎のパトロンに依存している訳だが、生活上、共同体的運営になっていたに違いあるまい。かなり独立性が高かったからこそ、16谷という用語がいつまでも残っていると考えるのが自然だ。その"谷"というユニットの組織的集合体が"塔"ということになろう。

従って、全山では、3箇所代表者が集まっての合議ということになろう。
言うまでもないが、この辺りの実情は、すべての書類が灰燼に帰しているから、確かめようがない。建物も何があったかよくわからないが、事務方が存在していたのではないか。

この様な組織体だったとすれば、2塔+横川の内部対立は必然である。
東塔所属の谷は、園城寺に別れていった集団を見てもわかるように、檀那ありきというか、朝廷支援を得ることに長けたグループであり、確固たる財政基盤を持つ。
一方、横川は、学僧集団に近いが、閉鎖的ではなく、外部とのネットワーク的広がりがある。
西塔は、修行を旨としており、育成された僧は外部から引く手あまた。ただネットワーク型活動や、地場教化とは無縁になりがちで、例えば、国司の従僧のように、主人のためだけに全力で尽くすことになったりする。

互いに影響を受け、組織文化上、相互浸透するのは当然の流れと思いがちだが、いかんせん基本はあくまでも"谷"ユニット。風土的には近くなるよりは、遠ざかって行く可能性の方が高かろう。

こうした、風土的な違いを乗り越え、単一組織として運営していくことは、かなり困難なことだったと思われる。

祖師の修行の地として訪れるなら別だが、一般的な寺院観光で足を運ぶと、延暦寺はとらえどころがない地である。参拝につきものの名物料理やお土産のお店が並ぶ訳でもないし。
目玉は根本中堂だが、余りに有名なためか一帯は人だらけ。それを嫌って寒い時期に行ったりすると、堂内に入った途端、足から凍てついて拝観どころではない。
早速に、次の地となるが、そこは1Kmほど離れた比叡山最古の建物 釈迦堂ということになる。これは豊臣秀吉が移築させたとの解説付。言葉は明瞭だが、それは園城寺を事実上廃絶させたことを意味していることになる。
さらに、横川中堂に至ると、それは1971年建立の目新しい建物。
要するに、織田信長によって全山壊滅させられたが、それをなんとかここまで復興させたということ。
唯一、焼け残ったとされる小堂はあるものの、デザインがいかにも鎌倉期の禅堂風。古き面影を感じとることは無理である。
「今昔物語集」の頃にどうなっていたのかわかったものではないし、以下、間違いも多そうだが、とりあえず。・・・

【西塔】
   5谷…南谷、南尾谷、北尾谷、北谷、東谷
   別所…黒谷
  《山城国宝塔院/西塔》…最澄(法華経千部安置全国6塔の1つ)
  《相輪…820年最澄
  《法華三昧堂》…826年延秀+2世円澄/法鏡行者
  《釈迦堂/転法輪堂》《(西塔院)》《寂光院》…834年円澄
  《宝幢院》@東谷…850年頃恵亮/大楽大師[802-860]
  《六観音堂》@東谷…859年頃恵亮
  《常行三昧堂》…893年静観、顕祚
  《(西塔院)》…923年10世増命
  《西塔大日院》…948年15世延昌
  《勧学院》…950年頃(村上天皇勅願)
  《瑠璃堂》@北谷…伝950年頃21世陽生(村上天皇期)[薬師仏]
  <回峯行:正教房/石泉院流>@北谷
  《椿堂》@南谷…聖徳太子信仰らしい。
  《経蔵院堂》@南尾谷
  《竹林院堂》@北尾谷
   ---西塔復興---976年18世良源
  《黒谷青竜寺》…良源
  《勝蓮華院》《大乗院》…996年23世覚慶[928-1014年](一条院御願)
【東塔】
   5谷…東谷(仏頂尾・檀那院)、西谷、南谷、北谷(八部尾・虚空蔵尾)、無動寺谷
   別所…神蔵谷
  《一浄止観院⇒根本中堂》@中心…788年最澄
  《戒壇院》@中心…828年義真
  《近江国宝塔院/東塔》…821年〜
  《東塔院/法華惣持院》…円仁 (塔と組:法華経安置院)
  《大講堂》…824年義真(曼荼羅中心の大日如来安置か。)
  《仏頂院》@東谷仏頂尾
  《檀那院》@東谷檀那院
  《四種三昧院構想の一部⇒文殊楼》@北谷…861年円仁 (楼であるから入口か。)
  《八部院》@北谷八部尾
  《本願堂》@北谷虚空蔵尾
  《山王院》@西谷
  《千光院⇒円乗院/円城院》@西谷…延最院院主(宇多天皇灌頂)
  《御廟所⇒浄土院》@西塔側
  《延命院》…13世尊意[866〜940](朱雀天皇勅願寺)
  《西尊院》@南谷
  《定心院》@南谷…846年3世円仁(仁明天皇勅願寺)
  《無動寺(明王堂)@南谷…865年相応/建立大師[831-918年]
  <回峯行:玉泉房流/玉照院>@無動寺
  《実相院》@南谷…1062年明快[985-1070年](後冷泉天皇御願)
  《五仏院・丈六堂・勝陽房・円融房・覚意三昧院》@南谷
  *天梯峰*…多分、「今昔物語集」渡来天狗の話。
【横川】
   6谷…般若谷・香芳谷・戒心谷・解脱谷・兜卒谷・飯室谷
   別所…釈迦院・帝釈寺・安楽谷
  《[草庵]首楞厳院⇒横川中堂》819年・848年3世円仁
  《[小堂]如法堂》…円仁
  《四季講堂》…良源住房
  《般若院》@般若谷
  《青蓮堂》@香芳谷
  《慈恵大師御廟@香芳谷…京鬼門
  《海上堂》@戒心谷
  《寂静堂》@解脱谷
  《兜卒堂》@兜卒谷…良源
  《恵心院》@兜卒谷…源信
  《不動堂/飯室寺》@飯室谷
  <回峯行:恵光房流/松禅院>@飯室谷
  《帝釈寺》@帝釈寺
  《安楽律院》@別所安楽谷…叡桓

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